戦国時代の武将にもさまざまな人物がいますが、「悪人」を一人挙げろと言われたら、多くの人が松永久秀(まつなが ひさひで)を思い出すのではないでしょうか。
松永久秀(Wikipediaより)
現在は単純な「松永久秀=悪人」説は誤りとされていますが、彼は長らく日本史上屈指の悪人の一人とされてきました。
ただ、戦乱のさ中に久秀が東大寺の大仏を焼いてしまったというこの逸話も、証拠は残っておらず研究者の間でも結論が定まっていません。今回は、この問題について探ってみましょう。
■東大寺を舞台にした戦闘
松永久秀によって東大寺の大仏が焼かれたと伝えられている事件は、1567年に起きた東大寺大仏殿の戦い、あるいは多門山城の戦いと呼ばれている戦闘の最中に起きました。
この年の4月から10月にかけての半年間、松永久秀・三好義継と三好三人衆・筒井順慶・池田勝正が市街戦を繰り広げたのです。

ご存知、東大寺の大仏
大仏が焼けたのは夜のことなので、目撃者はいません。ただ、犯人が誰なのかについては3つの説があります。
ひとつは、松永久秀による放火。もうひとつは、三好三人衆軍による失火。3つめは、久秀軍の中にいたキリシタンの人物による放火です。結論を先に言えば、最近の研究者の間では2つめの失火説が支持を得ているようです。
ではなぜ、松永久秀は今まで犯人扱いされることが多かったのでしょうか。
久秀は武力を背景にあちこちから略奪し、それによって強力な軍勢を組織していました。1567年に戦いが始まると、彼は東大寺や奈良の興福寺をはじめ、その他の富裕層からも徹底的に「徴税」しています。
それに対し、久秀と敵対していた三好三人衆は寺社・富裕層を保護する方針を掲げます。こんな形でも、両勢は刃を交えていたのです。
■「松永久秀悪人説」を語り継いだのは誰か
そんな調子で5月になると、三好三人衆は奈良の東大寺大仏殿・二月堂などを占領。さらに久秀も戒壇院を占領して大仏殿にいた三人衆軍を銃撃しますが、今度は三人衆が久秀の手下に賄賂を渡して裏切らせ、久秀軍の陣地に放火させるなどしました。
しかし、久秀の軍勢は放火も何のその、敵軍を撃退すると大仏殿にいた三好三人衆に奇襲をかけました。このどさくさの中で、大仏は焼けてしまったのです。

現在の東大寺大仏殿
このように、宗教施設に土足で上がり込んで勝手に戦闘を始めるめちゃくちゃぶりで、当時の僧侶たちの頭を抱える姿が目に浮かぶようです。大仏が焼けたのは一個人による放火が原因と考えるよりも、この混乱に巻き込まれた結果だと考えた方が納得がいくのではないでしょうか。
しかしその後、松永久秀が大仏を焼いた犯人扱いされたのは、この後の彼の振る舞いにありました。
このことから東大寺は、久秀のことを「積悪の主」と呼んで呪ったとか。
もともと当時の僧侶は知識階級でもあり、寺社による記録は、その後の歴史観・歴史批評に大きく影響してきました。こういった事情もあり、久秀は稀代の悪人として語り継がれるようになったのです。
参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan