■徳川家光の「女装癖」?

そういえば徳川家光のことをインターネットで調べてみると、「男色で女装癖があった」というのがよく出てきます。

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徳川幕府三代目将軍・徳川家光(Wikipediaより)

家光の男色については事実のようですし、当時それは珍しいことではないので特筆するほどでもないのですが、「女装癖があった」というのは何をエビデンスとする話なのか、よく分からないことが多いです。


徳川家光が女装をしていたとうエピソードが全くないわけではありません。

ただ、それは当時の流行に乗っかったファッションをしていただけの話です。しかもそのエピソードは、若き日の家光が感情に任せて教育係をクビにしてしまったという、別の話の中のひとコマに過ぎません。

具体的にはどういうことなのか、解説します。

■三人の教育係

徳川家康と、その息子であり徳川幕府の二代目将軍である秀忠は、「後継ぎがしっかりしていないと徳川家も滅びる」と考えました。彼らの念頭にあったのは、言うまでもなく豊臣家のことです。

そこで彼らは、家光に幼少期から英才教育を施すことに決め、まだ若干12歳だった家光に、三人の教育係をつけました。

まず一人目が、江戸幕府の老中・大老を勤めた酒井忠世で、彼は無口でどっしりとした重厚感のある人柄だったといいます。また二人目の土井利勝も同じく老中・大老を勤めた人物で、柔軟で優しい性格の譜代大名でした。

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 酒井忠世(Wikipediaより)



三人目が青山忠俊です。彼は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた人物で、戦国時代の気風が残っている性格だっ若上たのか、人に対して厳しく進言する性格だったといいます。家康・秀忠に仕えた譜代大名でした。


後世に成立した、新井白石による『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、彼ら三人は家光が師事した「三臣師傅説」に数えられています。

ただ、この中で、優しくも厳しい人物だった青山忠俊は、その性格のため家光から改易されてしまうのです。

その原因こそが、家光が女装している姿を目撃してしまったことでした。



■家光と忠俊の確執

江戸時代初期は傾奇者(かぶきもの)という奇抜なファッションが流行していましたが、おそらく家光もそれに影響されたのか、ある日鏡を並べて化粧をしていました。

するとそれを目撃した青山忠俊は、「これが天下を治める人のやることか」と激怒し、鏡を奪うと庭へ投げ捨ててしまいます。

もちろんこれは「憎くてやった」のではなく、彼は本当に厳しい性格だったのです。時には、家光が言うことをきかないと上半身裸になって「それなら私の首を刎ねなさい」と言い出すこともあったとか。

このへんに戦国時代の気風の名残が感じられますが、それは全て愛情ゆえのこと。彼は厳しい父親代わりだったのです。

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「いかにも」な風貌の青山忠俊の肖像(Wikipediaより)

しかしさすがの家光も、人前で諭されたことが我慢ならず、忠俊を老中から外して減封しました。さらに、秀忠が死去すると蟄居・改易処分とまでしています。

その後、青山家は没落してしまい、忠俊は死ぬまで大名に返り咲くことはありませんでした。
ただ、子の代では大名になっており、家光も忠俊との諍いについては「若気の至りだった」と後で後悔していたとか。

以上は有名な話ですが、この中で家光が化粧をしていたと言っても、それは必ずしも彼の女装癖を裏付けるものではありません。ただ、育ての親との関係がこじれてしまった人間臭いエピソードの中に登場しているというだけです。

徳川家光は、とかく遊び好きだったとか辻斬りまでしていたとか、どこまで本当かよく分からない逸話が多い人物です。女装癖の話も含め、まだまだその人物像については掘り下げる余地があると言えるでしょう。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

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