■徳川吉通という人

江戸時代に尾張藩で起きていた連続不審死について解説します。尾張藩は徳川御三家の一つであり、高い家格を誇る藩でした。
しかし、徳川吉宗が将軍に就任する直前、この藩では数々の奇怪な事件が起きています。

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名古屋城天守閣

当時、尾張藩は異常な状態にありました。四代藩主である徳川吉通は徳川吉宗の最大のライバルといわれており、頭がよく、名君として評されることが多い人物です。

しかし彼には暗君としての側面もありました。側近である奥田忠雄を小姓から出世させ、そして奥田は吉通の欲望ならどんなことでも応じていたのです。

例えば、吉通が料理屋の娘を下屋敷に連れ込むと、奥田はその娘の父を百五十石の尾張藩士に抜擢します。また、吉通が水泳の稽古をしたいと言い出せば、巨大な水船や温水プールまで造らせるという始末。しかもこの日本史上初の温水プールは不良品だったらしく、たった一度使われただけでした。

また吉通は、素行に問題があった母親をかばい続けていたともされています。

■奥田の死から始まり…

さて、奥田忠雄を、吉通が万石取りの国家老よりも上席に座らせたあたりから、尾張藩では不審死が頻発します。

まず、1711年に奥田が突然亡くなりました。これについては女中に刺されたという噂もあったとか。


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その後、吉通自身も1713年9月15日、夕方に腹部の痛みを訴え、わずか四時間後に死亡しました。25歳の若さでした。

儒学者・室鳩巣の『兼山麗澤秘策』では、吉通は「食後に血を吐き、苦しみながら死んだ。医者も全く手に負えなかったため、多くの者がその死を疑った」と記録されています。また亡くなる前日、彼は侍医に「汝は吾を殺しはせぬか」と尋ねたりしていたとか。

なぜか吉通の死は秘密裏にされ、さらに紀伊家から進物を担いでやってきた人たちのうち一名が、尾張家の表玄関前で突然死。さらに二か月後には吉通の三歳の子が亡くなり、また奥田忠雄の後継になった弟も25歳で亡くなりました。

これで「何かが起きている」と感じない方がおかしいでしょう。尾張藩内の人々は疑心暗鬼に陥ります。



■陰謀かお家騒動か

この連続不審死によって、尾張徳川家の正統は絶えることになり、その後徳川吉宗が将軍に就任しています。よってこれは吉宗やその関係者による陰謀・暗殺ではないかという推測もあるようです。

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徳川吉宗像

実際、当時の名古屋藩士だった朝日重章が記した日記『鸚鵡籠中記』の中には、当時「和歌山藩の間者が名古屋藩邸をうかがっている」噂が立っていたという記載もあり、尾張藩内には全般的に不穏な空気が漂っていたようです。


また和歌山藩ではその後、尾張出身者の解雇令が出されており、尾張徳川家の息のかかった忍びが侵入するのを防ごうとしています。

さらに言えば、吉通が亡くなったのは、将軍・家宣が亡くなった翌年のことです。家宣は、吉通を後継に考えていたとされています。

とはいえ、和歌山藩による陰謀というのはちょっと可能性が低いように思われます。そのわりには無関係の人間まで死に過ぎているからです。また、吉通が吉宗のライバルだったと言っても、本当に吉通は吉宗に代わり得る人材だったかは疑問符がつくところもあります。

さしあたりは、尾張藩の一連の連続不審死は、お家騒動として捉えた方が筋が通るでしょう。

当時、吉通の母親は多淫で、その素行には大変問題があったとされています。吉通はそんな母親を長らくかばい続けており、そんなこともあって吉通の親族と奥田たちは、門閥譜代の重臣たちと対立関係にあったともいわれているからです。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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