赤穂浪士が討ち入りを行った、通称「赤穂事件」は、日本人なら誰もが知っているドラマです。
赤穂大石神社「赤穂四十七義士」
しかし、まだまだ実像が明らかになっていない部分も多いようで、歴史学者の磯田道史は『日本史を暴く』という著作の中で、当時の赤穂浪士たちの知られざる「ラストシーン」があったことを説明しています。
磯田は古文書を丹念に解読していく研究スタイルで有名ですが、滋賀県の旧家で、赤穂事件にまつわる古文書を見出しています。
その古文書を書き残したのは、赤穂浪士の一人である近松勘六です。彼は浪士たちの中でも特に記録係としての能力が高かったらしく、討ち入り直後に傷を負ったにもかかわらず、記録をきちんと書き残しています。
例えば、討ち入り時の浪士たちの成果や、彼らが吉良の首を泉岳寺に持っていった時の経緯は彼が記録したものです。
滋賀県で発見された古文書には、討ち入りを果たした浪士たちが、吉良の首を泉岳寺へ持参した「その後」の行動が記録されていたそうです。そしてその行動というのが、赤穂事件の「新たなラストシーン」にふさわしいものだったのです。
■墓前での儀式
文書によると、浪士たちは亡き浅野内匠頭の墓前で一人ひとり名乗って奉告(神様などに謹んで告げること)を行っています。

浅野内匠頭の墓
彼らは脇差を抜くと、その柄を石塔に向けて置きました。それから、めいめい名乗ってから焼香し、脇差を手に取ると吉良の首に三度あてがう……という行為を繰り返したというのです。
つまり討ち入りを果たした浪士たちは、ただ単に吉良殺害を果たしたことを報告したのではなかったのです。彼らは、墓石を主君に見立てて、あたかも主君が吉良の首を取っているかのように演じたのでした。
この時に大石内蔵助が言った言葉も、文書にはきちんと記されており、磯田はその詳細な解読文も『日本史を暴く』に掲載しています。
■討ち入りの真の目的
吉良邸への討ち入りを果たした後、浪士たちが泉岳寺に立ち寄った直後の行動については、今までほとんど分かっていませんでした。
かろうじて、当時の寺の僧だった人物の記録はあったのですが、その僧は墓前での儀式までは見ることができなかったのです。

吉良上野介義央公・乗馬像
発見された古文書によって明らかになったのは、実は大石内蔵助たちの討ち入りと吉良殺害は、それ自体が目的だったのではないということです。彼らは吉良の首を主君の墓前に運び、主君自ら恨みを晴らさせることを目的としていたのでした。
このことについて磯田は、同書の中で「今後書かれる忠臣蔵はラストシーンが変わってくるに違いない」と述べています。
参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年
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