現在でも、凶悪事件の被疑者が逃走している場合などに交番や公共施設、駅といった場所にその名前や顔が公表される「指名手配」。なかには懸賞金がかかっているものもありますよね。


そこで今回の記事では、そんな被疑者の捜索や指名手配の歴史について迫ってみたいと思います。調べてみると、とある皮肉なことも起きていました。

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江戸時代の人相書(出典:沖縄県警察ホームページ)

■江戸時代は「人相書」で探し出す!

江戸時代において、容疑者の捜索には、「人相書(にんそうがき)」というものが使われていました。

今の指名手配書には氏名や写真のほかに、時間が経っている事件の場合などは「老け顔」の予想まで掲載されていることもありますよね。しかし、写真のなかった江戸時代、人相書には容姿や話し方の特徴などが書かれていました。

たとえば、2019年に兵庫県丹波市氷上町御油の円通寺で発見された人相書には……

一、年齢は二十四歳。ただし年齢より老けて見える。

一、身長は高く、中肉。丸顔で、鼻筋が通っている。色黒のほう。

一、眉毛は薄いほう。

と書かれています。
(神戸新聞サイトより引用)



見つけたらお代官様へ…江戸時代の指名手配書「人相書」がお寺の襖から発見される
江戸時代の指名手配は「人相書」で!手配写真の始まりなど知られざる被疑者捜索の歴史






■司法制度を整えた江藤新平の逮捕のきっかけは……

明治維新に特に優れた尽力者である「維新十傑」のひとり、江藤新平。彼は裁判所や検察の設置など、近代日本の司法制度を整えた人物です。

さまざまな近代化を行いましたが、そのなかでも江戸時代に用いられていた「人相書」を「手配写真」に変更したことでした。逃亡してもすぐに捕まえられるよう、あらかじめ写真を撮っておくというものでしたが、これが彼に皮肉な結果を生みました。

というのも、江藤は征韓論をめぐり政府と対立し、地元佐賀に下野します。そこで不平士族たちに押し切られ、1874(明治7)年「佐賀の乱」に発展。すぐに江藤らは敗れてしまいます。

その後逃亡を図りましたが、皮肉にも彼が整備した「手配写真制度」によって逮捕されたのです。



日本で「手配写真」を普及させた江藤新平は、皮肉にも手配写真の制度によって逮捕
江戸時代の指名手配は「人相書」で!手配写真の始まりなど知られざる被疑者捜索の歴史


武士の身分を剥奪、首級を晒され…明治時代、日本の法律整備を急いだ江藤新平の最期
江戸時代の指名手配は「人相書」で!手配写真の始まりなど知られざる被疑者捜索の歴史




いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

画像出典:沖縄県警察ホームページより

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