■日本の文芸史を変えた?『当世書生気質』と『小説神髄』を発表

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朝ドラ「らんまん」で山脇辰哉が演じる堀井丈之助のモデル?小説家・坪内逍遥の生涯②
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坪内逍遥は、学者と小説家の二刀流として順調に歩みを進めていました。

明治18(1885)年6月、『一読三歎当世書生気質』を刊行開始(全17冊)。
同年9月には『小説神髄』の発表(全9冊)の刊行を始めます。

いずれの書籍も、逍遥にとって代表的な著作でした。

翌明治19(1885)年、鵜飼常親の養女・センと結婚。明治24(1889)年には、雑誌『早稲田文学』を創刊するなど、公私にわたって充実した日々を過ごしていきます。

朝ドラ「らんまん」で山脇辰哉が演じる堀井丈之助のモデル?小説家・坪内逍遥の生涯③


逍遥の著書は、日本の文芸誌を大きく変えていく…

■牧野富太郎と親友?それとも…?

明治24(1889)年の末、森鴎外との間で論争が起こり、人々の耳目を集めることとなりました。

この論争は「没理想論争」と呼ばれる文学論争です。

逍遥はシェイクスピアの作品を理想を文学に表さず、客観的に描いた作品と規定。対して鴎外は美の理想を主張して対立しました。

そしてこの森鴎外の存在こそが、牧野富太郎と繋がりを見せていきます。

朝ドラ「らんまん」では、主人公槙野万太郎(モデルは牧野富太郎)が堀井丈之助(坪内逍遥がモデル)との掛け合いを見せてくれます。

実際、この2人が本当に知り合いだったかはわかっていません。しかし2人の間にいたのが森鴎外でした。


森鴎外と牧野富太郎は、ともに文久2(1862)年生まれの同い年です。2人の日記にはお互いの名前が記されており、交流がありました。

加えて鴎外は、牧野の影響なのか草花を好んでおり、自分の作品の中にも登場させています。

逍遥と牧野が関わりがあったかは定かでないようです。しかし鴎外を通して関わりがあった可能性は十分に考えられます。

あるいは、鴎外と牧野の関係がドラマの中に取り入れられたのでは無いでしょうか。分かりませんが。

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牧野富太郎。日本植物学の父と言われるほどの学者だった。



■新劇運動での活躍と双柿舎での日々

逍遥は、早稲田大学で文学者としての活動を続けながら、新たな道にも進んでいきました。

明治39(1906)年、小説家・島村抱月らと共に文芸協会を開設。新劇運動の先駆けとして活動します。


明治42(1909)年9月には、演劇研究所を開所。当初の研究生22名を抱えての船出でした。

同年12月には因縁のある『ハムレット』を刊行。昭和3(1928)年に至るまで、シェイクスピア全作品の翻訳刊行を果たしました。

朝ドラで「俺がシェイクスピアの全作品を翻訳したら」と、堀井丈之助が言っていましたね。逍遥は、実に足掛け19年に及ぶ大事業を見事に完成させたのでした。

大正9(1920)年5月、熱海・双柿舎が完成。逍遥はここに移り住んで暮らすようになります。

高齢になっていた逍遥ですが、演劇に対する情熱は衰えません。

かつて自分が刊行したシェイクスピア全集の翻訳の改訂作業を続行。昭和8(1933)年に『新修シェークスピヤ全集』の配本を実現させました。

逍遥は、無事に自分の成した仕事を見届けることができたのです。


昭和10(1935)年2月28日、逍遥は双柿舎で病没。享年75。

日本の文芸史に新風を吹き込んだ偉人の生涯でした。

朝ドラ「らんまん」で山脇辰哉が演じる堀井丈之助のモデル?小説家・坪内逍遥の生涯③


熱海の双柿舎。逍遥の終の棲家となった。

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