一 我身姫ばかり二人産たるは何の用にか立ん大将ハ男子こそ大事奈れ妾あまた召て男子を設け給へとて築山殿すゝめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し三郎殿妾にせられし事

※『後風土記巻第十六』「築山殿凶悍 付 信康君猛烈の事」

【意訳】ねぇ聞いてお父様。お義母様ったら、私に「子供を二人産んだと言っても女児ばかり、それが何の役に立つんですか。
武家の妻は、男児を産まねば存在価値がないのです」なんて言うんです。しかも夫に対して「こんな役たたずの嫁に遠慮することはありません。早く側室をたくさん迎えて、ポンポン男児を産ませなさい」と言い出して、勝手に側室を迎えてしまったんです。正室の私をないがしろにする暴挙、もう我慢できません!

……これは松平信康(まつだいらのぶやす)に嫁いだ五徳(ごとく)が、姑の築山殿(つきやまどの。瀬名)による嫁いびりを、父・織田信長(おだのぶなが)に訴えた書状の一節。令和現代の感覚からすれば、凄まじい男尊女卑ですね。

確かに家督を継がせる男児が欲しい事情は解ります。しかし選ぶに事欠いて、敵対している武田家臣の娘を連れてくるのはいかがなものでしょうか。

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信康と築山殿(画像:Wikipedia)

織田家から嫁いだ自分を疎んじて、武田勝頼(たけだ かつより)と誼を通じる築山殿と信康。これは謀叛に違いないと通報を受けた信長は、徳川家康(とくがわ いえやす)に対して築山殿と信康を処刑するよう圧力をかけます。

これが世にいう築山殿事件。信長に屈した家康は、天正7年(1579年)8月29日に築山殿、同年9月15日に信康をそれぞれ自刃させたのでした。


※一説には、往生際の悪い築山殿を、介錯人の野中三五郎重政(のなか さんごろうしげまさ)が斬ったとも言われます。

さて、遺された信康の娘たち(福子、国子)は母親の五徳に捨てられ(一人で織田の実家に帰ってしまいました)、祖父の家康とその側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)に養育されたそうです。

信康の遺児はこの姉妹二人だけかと思いきや、江戸時代の系図集『系図纂要(けいずさんよう)』を見ると、男児の存在が記されていました。彼の名は万千代(まんちよ)。果たしてどのような生涯をたどったのでしょうか。



■松平万千代は信康自害後も生き延びた?

童 万千代
母 日向大和守時昌女

※『系図纂要 清和源氏 三』より

系図の記述はこれだけ。万千代とは幼名で、母は日向大和守時昌(ひなた やまとのかみときまさ)の娘。これ以外に情報はないようです。

日向大和守時昌は武田信玄(しんげん)・勝頼の二代に仕え、別名を日向虎忠(とらただ)・日向昌時(まさとき。誤記?)などとも言いました。

信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)を守備するも、天正10年(1582年)に織田の侵攻を受けると陥落。時昌は自ら開基した光村寺(山梨県北杜市)まで逃げて、息子の日向二郎三郎(じろうさぶろう)と共に自刃して果てたと言います。


話は戻って万千代。その生年は不詳ながら、父・信康の没年と母・五徳の訴えから概ね割り出すことが可能です。

天正5年(1577年)7月 信康次女・国子が誕生。

天正7年(1579年)9月 信康が自害

ここから築山殿が五徳をいびり、勝手に日向家の娘を連れてきたのはこの間となります。

そして彼女を側室に迎えて(時期は不明)から子供が生まれるまで約1年かかるため、万千代の生年は天正6年(1578年)~天正8年(1580年)の間と考えられるでしょう。

【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】


万千代が生まれて大喜びの信康(イメージ)

もし母親が信康の在世中に万千代を産んでいれば、信康の自刃に連座して殺されたと思われます。武田家にゆかりの深い男児など、生かしておいて徳川家に何の得もありませんから。

※家系図などにおける「童」という表記は、多くの場合「元服せずに亡くなった」ことを意味します。

しかし仮に母親の妊娠中(未発覚)に信康が自刃、実家へ追い返された後に彼女が万千代を産んでいたら、どうなったでしょうか。

武田家の滅亡に際して命を落としたかも知れませんし、あるいは生き延びた可能性も否定できません。

九分九厘前者(武田の滅亡時に殺された)でしょうが、実は万千代が生き延びていた可能性について、少し考えてみたいですね。



■【仮説】松平万千代は武田信吉になった?

そこで「松平万千代」と調べてみたところ、幼名を「万千代」と称していたのは以下の二人。


  • 松平信吉(のぶよし。家康の五男、武田信吉)
  • 松平信吉(読み同じ。藤井松平家第3代当主)
※どっちも同姓同名で紛らわしいため、以下前者を武田信吉とします。

武田信吉は天正11年(1583年)生まれ、松平信吉は天正10年(1582年)生まれ。松平万千代と若干のズレはあるものの、武田家の滅亡に際して家康が匿っておき、信長の死後にそれとなく世に出したのかも知れません。

「ん。万千代君(ぎみ)は、ご年齢に比していささか発育がよいような……」

「左様か?気のせいじゃ気のせい!ははは……」

特に自分の子である武田信吉なら、あまり人目につかせず囲っておけましたし、大きくなってしまえば年齢の2~3歳くらい容易にごまかせたことでしょう。

【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】


穴山勝千代(画像:Wikipedia)

信康の遺した男児であり、武田家とゆかりのある万千代。後に穴山勝千代(あなやま かつちよ。穴山梅雪の子)の養子となって武田の名跡を継いだ……のかも知れません。

ちなみに、史料から確認されている武田信吉は家康と側室・下山殿(しもやまどの。武田一門・穴山虎康の娘)の間に生まれたとされています。


一度は武田家を再興させましたが、病弱だったのか子供のないまま慶長8年(1603年)9月11日に死去。再び武田家は断絶してしまったのでした。

■終わりに

【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】


姑にいびられ、夫に疎んじられる五徳の憂鬱(イメージ)

信康 竹千代
永禄二年三ノ六生元亀二年八ノ廿八元服信長之一字契約源二郎三郎信康
天正七年九ノ十五自刃于二股城廿一……

【意訳】松平信康。幼名は竹千代、永禄2年(1559年)3月6日生まれ。
元亀2年(1571年)8月28日に13歳で元服、舅の信長から信の字をもらって源二郎三郎信康と名乗った。
天正7年(1579年)9月15日に二俣城で自刃した。享年21歳。

母築山殿関口刑部少輔氏廣女
天正七年八ノ廿九自刃……

【意訳】信康の母・築山殿。関口氏広(せきぐち うじひろ。刑部少輔)の娘。信康に先立ち8月29日に自刃した。

女 福子
母信長女徳子 寛永十三五ノ十卒五十八見星院香厳寿桂
小笠原兵部大輔秀政室慶長十二年十ノ十八卒……

【意訳】信康の長女・福子。
母は信長の娘・徳子。小笠原秀政(おがさわら ひでまさ。兵部大輔)の妻となった。慶長12年(1607年)に亡くなった。

女 国子 母同
本多美の守忠政朝臣室寛永三年六ノ廿五卒……

【意訳】信康の次女・国子。母は姉と同じ。本多忠政(ほんだ ただまさ。本多忠勝の子・美濃守)の妻となった。寛永3年(1626年)に亡くなった。

童 万千代
母 日向大和守時昌女

【意訳】信康の長男・万千代。母は日向時昌の娘。

以上、信康が側室に産ませた男児・松平万千代について紹介してきました。
信康の子供は娘だけだと思っていたので、男児がいたとは意外でしたね。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には登場するのでしょうか(たぶん割愛でしょうけど)。瀬名と信康の最期ともども、注目しています。

※参考文献:

  • 飯田忠彦『系図纂要 清和源氏 三』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年10月
  • 柴裕之『戦国・織豊期大名 徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年11月

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