今も多くの人に愛されている菓子・天津甘栗(てんしんあまぐり)の歴史を見ていきましょう。
まず押さえておきたいのは、いわゆる「甘栗」という言葉には、栗の品種としての意味と、食べ物(お菓子)としての意味の二種類あるということです。
品種としての甘栗は、中国原産の栗のことです。日本国産の栗のことは和栗と言います。和栗は、加熱するとホクホクした食感になり香り高いのが特徴。一方の甘栗(中国の栗)は柔らかい食感で甘みが強めです。
つまり、栗の甘味を求めるなら、中国産の甘栗が適しているというわけです。
次に食べ物(お菓子)としての甘栗ですが、これは甘栗を小石の中に入れてじっくりと熱して、糖液をかけて蒸らすことで作られます。糖液によって一粒一粒がツヤツヤし、宝石のような見た目になるのも大きな特徴ですね。
材料の甘栗が中国産なら、この製法も中国由来のものです。日本ではこの製法によって作られたお菓子を天津甘栗と呼びますが、実は中国では「糖炒栗子(タンチャオリーズ)」といい、秋に新栗が出る頃に食べられる季節品です。
では、この糖炒栗子はどのように日本に伝わり、「天津甘栗」になったのでしょうか。
■浅草で初登場
日本で天津甘栗が食べられるようになったきっかけは、1910年に東京・浅草の仲見世で、中国人の李金章という人が、日本初の甘栗店である「金升屋」をオープンさせたことでした。
この店で用いられていた原料の栗は、山東や大連・天津などの中国各地から輸入されていたようです。
中国の人がこの「天津甘栗」という名称を見たら、母国にない珍しいお菓子だと思うかも?

日本の「天津甘栗」の出店
日本でも、栗(和栗)は昔から採れていましたが、どうやら天津甘栗のように甘く味付けしてお菓子として楽しむ食べ方というのは、少なくとも一般的ではなかったようです。
もちろん栗ご飯など、栗を使った料理は存在していました。しかし例えば、お正月の料理に欠かせない栗きんとんなども、お菓子として商品化されたのは明治時代以降のことです。
もともと栗きんとんは、岐阜県東濃地方が発祥で、江戸時代の中期に中津川宿で旅人に提供されていたと言われています。それが明治時代に商品化され、大正時代以降に栗の栽培が始まったことでようやく大量生産が可能になったのです。
意外と、栗のお菓子の歴史は浅いのです。
■「甘いお菓子」は夢のよう!?
これはもしかすると、日本では昔であればあるほど砂糖が貴重品だったことと関係しているかも知れません。
砂糖の大量生産が可能になり、安く手に入るようになったのも近代以降のことです(和三盆などは特別)。
かつてはいわゆる小豆あんも、塩によって小豆そのものの甘味を強調する形で食べられていました。

そうした歴史的背景を考えると、和栗と比べて強い甘味を持つ中国産の甘栗が、さらに糖液でコーティングされている……という夢のようなお菓子が、当時の日本人にどれほどのインパクトを与えたかが想像できますね。
参考資料
和菓子の季節.com
仲見世
桜乳業株式会社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan