今回はその一派である黒住教の開祖である黒住宗忠(くろずみ むねただ)を紹介。果たして彼は、どのような生涯をたどったのでしょうか。
■両親を喪い、絶望の中で
今村宮に奉仕する黒住宗繁(イメージ)
黒住宗忠は江戸時代中期の安永9年(1780年)11月26日、備前国御野郡上中野村(岡山県岡山市)にある今村宮の神官・黒住宗繁(むねしげ)と黒住ツタの三男として生まれました。
幼名は権吉(ごんきち)、大層な孝行息子で備前藩から表彰されるほど両親に尽くしたそうです。
やがて元服して神官の家職を受け継ぐと、黒住左京(さきょう)宗忠と改名します。しかし33歳となった文化9年(1812年)に両親が病に倒れ、懸命の看護もむなしく世を去ってしまいました。
「黒住の孝行息子」とあだ名されるほど両親思いであった宗忠は、悲しみのあまりやつれてしまい、労咳(肺結核)を患い寝込んでしまいます。
薬師からも匙を投げられた宗忠は、絶望のうちに一年を過ごし、早くも二年が経とうとしていた文化11年(1814年)11月11日。
「あぁ。今に私もお迎えが来る……しかし考えてみれば、悲しむことはない。先だった父上と母上にお会いできるのだから……」
そう死を受け入れてみると、にわかに気が軽くなったと言います。
自分が病を患ったのは、両親に置いていかれた悲しみで陰気になったしまったからだ。
今この瞬間を生きていることが、どれほどありがたいことか。あらゆるものに降り注ぐ太陽の光が、どれほど暖かいことか。
感謝の心に胸が満たされた瞬間、太陽が宗忠の口に飛び込んできたといいます。この不思議な体験を、宗忠は後に「天命直授(てんめいじきじゅ)」と呼びました。

太陽の化身である天照大御神。春斎年昌筆
太陽の化身である天照大御神(アマテラスオオミカミ)と一体になったことを感じ、すっかり病も全快した宗忠は、人の病を治す不思議な力を授かったと言います。
陽気に努めることで太陽の霊徳を授かり、幸せに生きられるとするシンプルな教えが人気を呼び、宗忠の影響力は西日本に幅広く及びました。
そして嘉永3年(1850年)2月25日に71歳で昇天するまで、多くの人々を救済したと言います。
■エピローグ
宗忠が昇天すると、安政3年(1856年)3月8日に朝廷より宗忠大明神(むねただだいみょうじん)の神号が下賜され、文久2年(1862年)には京都神楽岡に宗忠を祀る宗忠神社が創建されました。
ストレートに自分の名前がつけられた神社って、宗忠当人にしてみれば面映ゆいかも知れませんね。
その後も人々によって崇敬され、100年以上の歳月を越えて宗忠の遺徳を今日に伝えています。
黒住教の教義や歴史などについても、また改めて調べて紹介したいですね。
※参考:
- 新宗教研究会『図解 新宗教ガイド』九天社、2006年1月
- 中矢伸一『神仕組み 日月神示 完全ガイド&アップデート』徳間書店、2022年11月
- 京都 神楽岡 宗忠神社公式ホームページ
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan