NHK大河ドラマ「どうする家康」第25回放送「はるかに遠い夢」で、織田信長(演:岡田准一)によって追放されてしまった佐久間信盛(演:立川談春)。
劇中では築山殿事件(天正7・1579年)の直後、恐らく同年内のこととして描かれています。
しかし文献によれば佐久間信盛の追放は翌年の天正8年(1580年)、理由もまた別のものでした(少なくとも信長の八つ当たりではありません)。
果たして信盛はどんな理由で追放されたのか、その後どうなったのか、紹介したいと思います。
■石山本願寺攻めの「職務怠慢」
佐久間信盛。「長篠合戦図屏風」より
思えば信盛は信長が16歳の時から先陣を務めていたが、やがて後輩たちが台頭するようになると、これを妬んだという。
「若輩どもが次々を国持ちとなって、気に入らん。まずは織田家筆頭家老たるわしこそが相応しかろうに……」
それが大坂で石山本願寺攻めなどさせられては、やる気が出ないのは無理からぬこと……などと腐っていたら、その様子を信長に讒訴する者があったらしい。
かくして信盛は永年の忠義と功績を捨てざるを得なかった。
……それまで10年ほども戦い続けていた石山本願寺との和睦がなったタイミングで、信盛は追放されたのでした。
大軍を率いて石山本願寺を包囲しておきながら、積極的に攻勢もかけずダラダラと歳月を浪費した怠慢を責められてのことです。
柴田勝家(演:吉原光夫)や羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)、そして明智光秀(演:酒向芳)らは各方面で目覚しく活躍しているのに、筆頭家老の座にあぐらをかいているそなたは何様だと。
さぞ退屈だろうに、いったい何をしていたのかと言えば、連日茶会を開いていたとのこと。
実に優雅ですが、それで城が落ちないのでは本末転倒もいいところでしょう。
上掲文中には「国持ニナランハマツ信盛ナルニ此大坂ノ押ハ不足ニテ心中イサマス」つまり「もっと評価されるべきなのに、大坂(石山本願寺)攻めなんて役不足の任務を与えられてはやる気が出ないのも当然」などとぼやくのでした。
これは完全に驕っていますね。努力もせんで後進を妬むような輩は必要ない……という訳で、信長は30年来の筆頭家老を追放したということです。
■温泉で事故死?佐久間信盛の末路
国立国会図書館 蔵『絵本石山軍記』より、追放される佐久間信盛父子の図(佐久間信盛父子天王寺対塁より追放せらる図
さて、追放された佐久間信盛。その後どうなったのでしょうか。
信盛の死因については、純粋に病の悪化をはじめ事故死(足をすべらせて崖から転落)とか暗殺(他家への出奔を懸念した信長による粛清)など、諸説あると言います。
『信長公記』によると信長はその死を哀れみ、息子の佐久間信栄(のぶひで。甚九郎)を赦免しました。
史料的には当時のリアルタイムで作成された『信長公記』の方が信憑性に富むため、恐らくこちらの方が近いでしょう。
(ただし十津川で病死した報せが、その日の内に届いたかは微妙。多少のタイムラグが考えられます)
■終わりに
さて、大河ドラマ「どうする家康」を振り返って佐久間信盛の人物紹介がこちら。
立川談春の渋いキャラクターを、また他の作品でも魅せてもらえるのを、楽しみにしています。
※参考文献:
劇中では築山殿事件(天正7・1579年)の直後、恐らく同年内のこととして描かれています。
しかし文献によれば佐久間信盛の追放は翌年の天正8年(1580年)、理由もまた別のものでした(少なくとも信長の八つ当たりではありません)。
果たして信盛はどんな理由で追放されたのか、その後どうなったのか、紹介したいと思います。
■石山本願寺攻めの「職務怠慢」
佐久間信盛。「長篠合戦図屏風」より
……同八月信長公大坂於進発城中ヲ見給其後以一書ヲ佐久間信盛父子遣テ曰多年兵を曝シ衆ヲ労シテ功ヲナスコトナシ急天王寺ヲ可出汝ヲカヤウニ被仰付御運已スヘニナルカトノ仰也信盛信勝不及陳謝熊野ニ籠居ス世云信長公十六歳ノ御時ヨリ信盛先陣ヲ勤近年ハ信勝大坂ヲ雖守強敵ニ向給フ時ハ信盛有先鋒信長臣下ノ功ヲソ子ミ給フコトアリ屡上諫言国持ニナランハマツ信盛ナルニ此大坂ノ押ハ不足ニテ心中イサマス時イカナルサンケンモ有ケルヤ数年ノ忠功ヲステヽ口惜次第ナリト云々保田久右衛門安政ハエツ タカ カ城ヲ退紀州根来ニ引籠【意訳】天正8年(1580年)8月、信長は佐久間信盛父子に折檻状(糾弾文書)を送った。曰く「長年大軍を率いておきながら武功をまるで立てていない。そもそもお前は……中略……とっとと出て行け」とのこと。信盛と佐久間信勝(のぶかつ。信盛の子)は陳謝もできず、紀伊国熊野へと出奔した。
※『佐久間軍記』「大坂門跡和睦」
思えば信盛は信長が16歳の時から先陣を務めていたが、やがて後輩たちが台頭するようになると、これを妬んだという。
「若輩どもが次々を国持ちとなって、気に入らん。まずは織田家筆頭家老たるわしこそが相応しかろうに……」
それが大坂で石山本願寺攻めなどさせられては、やる気が出ないのは無理からぬこと……などと腐っていたら、その様子を信長に讒訴する者があったらしい。
かくして信盛は永年の忠義と功績を捨てざるを得なかった。
また次男の保田久右衛門安政(やすだ きゅうゑもんやすまさ)も、城を捨てて紀州根来に引き籠もったのである。
……それまで10年ほども戦い続けていた石山本願寺との和睦がなったタイミングで、信盛は追放されたのでした。
大軍を率いて石山本願寺を包囲しておきながら、積極的に攻勢もかけずダラダラと歳月を浪費した怠慢を責められてのことです。
柴田勝家(演:吉原光夫)や羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)、そして明智光秀(演:酒向芳)らは各方面で目覚しく活躍しているのに、筆頭家老の座にあぐらをかいているそなたは何様だと。
さぞ退屈だろうに、いったい何をしていたのかと言えば、連日茶会を開いていたとのこと。
実に優雅ですが、それで城が落ちないのでは本末転倒もいいところでしょう。
上掲文中には「国持ニナランハマツ信盛ナルニ此大坂ノ押ハ不足ニテ心中イサマス」つまり「もっと評価されるべきなのに、大坂(石山本願寺)攻めなんて役不足の任務を与えられてはやる気が出ないのも当然」などとぼやくのでした。
これは完全に驕っていますね。努力もせんで後進を妬むような輩は必要ない……という訳で、信長は30年来の筆頭家老を追放したということです。
■温泉で事故死?佐久間信盛の末路

国立国会図書館 蔵『絵本石山軍記』より、追放される佐久間信盛父子の図(佐久間信盛父子天王寺対塁より追放せらる図
さて、追放された佐久間信盛。その後どうなったのでしょうか。
……八年明智光秀が讒によりて右府の勘気をかうぶり、紀伊国高野山にのがれ、のち病を癒せむがため同国十津川の温泉に浴し、十年正月二十四日彼地にをいて死す。高野山へ逃れた後、病を得て十津川の温泉へ湯治に行った信盛。天正10年(1582年)1月24日に55歳でこの世を去りました。年五十五。法名宗祐。葬地信晴におなじ。
※『寛政重脩諸家譜』巻五百三十一 平氏(良文流)佐久間
信盛の死因については、純粋に病の悪化をはじめ事故死(足をすべらせて崖から転落)とか暗殺(他家への出奔を懸念した信長による粛清)など、諸説あると言います。
『信長公記』によると信長はその死を哀れみ、息子の佐久間信栄(のぶひで。甚九郎)を赦免しました。
正月十六日 先年 佐久間右衛門父子 蒙御勘当致他国紀伊国熊野奥尓て病死仕候不便ニ思食候歟 子息 甚九郎事国之安堵御赦免儀被仰出濃州岐阜祇候いて 三位中将信忠卿へ御禮被申上候也……ん?『寛政重修諸家譜』では1月24日に死んでいるはずの信盛を、信長が1月16日に悼むのはおかしいですね。
※『信長公記』巻之十五 天正十年壬午
史料的には当時のリアルタイムで作成された『信長公記』の方が信憑性に富むため、恐らくこちらの方が近いでしょう。
(ただし十津川で病死した報せが、その日の内に届いたかは微妙。多少のタイムラグが考えられます)
■終わりに
さて、大河ドラマ「どうする家康」を振り返って佐久間信盛の人物紹介がこちら。
家康に難題を突きつける食えない男正直なところ、もう少し信盛の無理難題……もとい活躍が見たいところでした。初登場から全体を通して、信長の腰巾着にしか見えず残念です。
佐久間信盛 さくま・のぶもり
[立川談春 たてかわだんしゅん]
信長の父・信秀の代から織田家に仕える筆頭家老。信長の無謀さや羽柴秀吉、柴田勝家たち次世代の台頭に危機感を覚えつつも、織田家の足元を支える老獪な政治家。東部方面の戦略、徳川の監視役を任され、家康に無理難題をたびたび突きつける。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より
立川談春の渋いキャラクターを、また他の作品でも魅せてもらえるのを、楽しみにしています。
※参考文献:
- 近藤瓶城 編『改定 史籍集覧 第十三冊』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 太田牛一『信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ
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