天正10年(1582)の天目山の戦いで滅亡してしまった甲斐武田家。しかし、武田の名跡は滅んでおらず、後世まで血を残した信玄の子どももいました。


今回は戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子どもをご紹介します。

■盲目の僧侶・海野信親

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武田信玄/Wikipediaより

最初に紹介するのは信玄の次男・海野信親(うんの-のぶちか)です。

信親は生まれつき盲目(※近年では幼少期に失明した説も有り)で、永禄4年(1561)に海野幸義の娘に嫁ぎ、海野氏を継いだ後に出家。一向宗の僧である長延寺実了の弟子となり、竜芳と名を改めました。

信親は盲目だったために表舞台に出られず、永禄8年(1565)に兄の武田義信が謀反の疑いで処刑される義信事件後の武田家は、信玄四男の勝頼が継ぎました。ちなみに、信玄三男にあたる信之は、天文22年(1553年)に早世しています。

■信親死後は高家として生きていく

武田の血筋は現代まで…戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子ども


徳川家康/Wikipediaより

甲州征伐の際、信親は甲斐国の入明寺に匿われていましたが、勝頼自害の知らせを聞くと同寺で自害しました。

信親死後、穴山信君の娘との間に儲けた信道は父と同じく出家し、隠れ住んだことで織田の残党狩りから逃れました。その後は徳川家康と接触し、武田遺臣でありながら徳川家臣となった大久保長安の庇護を受けます。

しかし、大久保長安事件で配流されてしまいます。時を経て許された後、信道の孫にあたる信興が徳川綱吉に謁見した元禄14年(1701年)に高家として認められました。以後、信親から始まる武田家は「高家武田家」として現代まで残りました。




■安田の名を継いだ武田信清

武田の血筋は現代まで…戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子ども


武田勝頼/Wikipediaより

次に紹介するのは信玄の六男・武田信清(たけだ-のぶきよ)です。

信清は幼少期より仏門に入り、玄竜と名乗っていました。勝頼の代になると還俗し、甲斐源氏の一族である安田氏を継承します。

そして、玄竜から安田三郎信清と名を改めました。そのため、信清は安田信清としても知られています。

■武田家滅亡後は上杉家に逃れる

武田の血筋は現代まで…戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子ども


上杉景勝/Wikipediaより

天正10年(1582)の甲州征伐の際、信清は高野山に逃れたため難を逃れました。その後、上杉景勝の正室となっていた異母姉の菊姫を頼って、上杉家の客将として迎え入れられます。江戸時代になると上杉家の親族として1000石を与えられました。

また、武田の縁者ゆえに大久保長安事件で疑いを受けるも、関与した事実がなかったので、お咎めなしで済んでいます。

その後、信清は寛永19年(1642年)に死亡しました。享年は80歳でしたので、当時からすると大往生だったのは間違いないでしょう。ちなみに、信清から始まる武田家は「米沢武田家」として現代まで残っています。


■最後に

戦国大名としての武田家は織田信長に滅亡されてしまいましたが、他家の家臣や高家とした別の形で残りました。

また、高家武田家として厚遇した徳川家康、正室の縁者だから迎え入れた上杉景勝を見ると、戦国時代で武田家は大名家として尊敬されていたことがうかがえます。

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