悲劇の築山殿事件(天正7・1579年8月29日~9月15日)から3年。
愛する妻・瀬名(演:有村架純)と嫡男・松平信康(演:細田佳央太)を喪い、人が変わったようになってしまった徳川家康(演:松本潤)。
二言目にはいつも上様、上様、上様……よもや織田信長(演:岡田准一)の犬に成り下がってしまったか、と家臣たちの鬱屈は最高潮に達します。
しかし、耐え続ける家康には秘めたる野心がありました。
「信長を殺す」
妻子を奪われた怒りや恨みを押し殺し、ひたすら忍従してきた白兎は、狼を食ってやろうと復讐の時を狙っていたのです。
「わしは、天下を獲る」
秘めたる野心を打ち明けた家康。果たして?(イメージ)
本能寺の変(天正10・1582年6月2日)まで、あと46日。果たして家康の野望は成就するのでしょうか?
……という訳でNHK大河ドラマ「どうする家康」、第26回放送「ぶらり富士遊覧」は箸休めのコメディ回かと思わせつつ、実はドス黒く“闇堕ち”した家康が描かれていました。
(いや、本作の築山殿&信康は100%自業自得でしょ?信長を恨むのは筋違いでは……と思いましたが、今後「ストーリーの整合性」や「戦国時代のリアリティ」などに言及するのはなるべく控えます)
それでは今週も、気になるトピックを振り返っていきましょう。
■高天神城の合戦、武田家滅亡

自刃する勝頼主従。月岡芳年「勝頼於天目山遂討死図」
天正9年(1581年)3月22日 高天神城の陥落・岡部元信(演:田中美央)ら討死
天正10年(1582年)1月 木曾義昌(きそ よしまさ)が織田に内通
同年3月 穴山梅雪(演:田辺誠一)が家康に離反
同年同月 小山田信茂(おやまだ のぶしげ)に拒絶され、天目山で自害
ほとんどナレーションで終わってしまった武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の最期。上州岩櫃城(群馬県東吾妻町)の真田昌幸(演:佐藤浩市)を頼る道中に討たれたことになっていました。
真田を頼るか、あるいは岩殿山城(山梨県大月市)の一門衆・小山田信茂を頼るか迷った勝頼。
果たして小山田信茂を頼って拒絶された結果、天目山(山梨県甲州市)で自害または討死したのでした。
劇中では勝頼が討死した3月11日の夜に穴山梅雪が家康と謁見したことになっています(※)が、史料を見ると3月1日のこととなっています。
(※)謁見の最中「今朝、天目山で勝頼が討たれた」報せが入っていました。
……十年信濃国福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼふれたる中ながら勝頼のふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案内せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中将信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。 君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。【意訳】木曾義昌は、かの木曾義仲(よしなか)の17代子孫であった。武田の一門衆(亡き信玄の娘婿・勝頼の義兄弟)でありながら勝頼に恨みを持って織田に内通。甲州征伐を先導した。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の国へ迯帰る。 君の御勢は二月十八日浜松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。国中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寛仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降参のもの等は。志ろしめす国内の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち恵み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝頼をうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地蔵堂に参り 君に対面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝頼は梅雪典厩逍遥軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郎信勝と共にうたれたり。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「天正十年武田氏亡」
信長は信濃伊那方面から70,000の大軍を率い、嫡男の織田信忠(のぶただ)に50,000の兵を与えて木曾方面から攻め込ませる。
盟友たる家康も35,000の兵をもって駿河から攻め込んだところ、この機を逃すまじと相模の北条氏政(演:駿河太郎)も30,000の軍勢で東から武田領へ侵攻した。
小山城・田中城・持船城など武田方の城兵は、抵抗することなく甲斐国へと逃げ帰る始末。
家康は2月18日に浜松を出て懸川に到着。翌19日に家康が諏訪原城(牧野城)へ着いた時点で、先鋒は既に金谷・島田へ着くほど長蛇の大軍であった。
ところで信長は永年武田を怨んでおり、こたび甲斐国へ攻め込んだら、犬猫までも斬り捨てるよう厳命。しかし家康は投降した武田旧臣を匿ったという。
穴山梅雪も武田の一門衆(信玄の甥であり娘婿)でありながらこれまた勝頼を裏切って3月1日に家康へ投降。こうして一族からも見限られた勝頼は、天目山のふもとで嫡男・武田信勝(のぶかつ)ともども討たれたのである。
……ちなみに、武田の一門衆でありながら勝頼を裏切った木曾義昌・穴山梅雪・小山田信茂。彼ら3人の末路は悲惨なものでした。
木曾義昌は家康に仕えたものの、後に家康を裏切って羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に従いますが、秀吉は義昌を家康に突き返します。とうぜん冷たくされ、不遇のうちに生涯を終えました。
穴山梅雪は家康に従ったものの、同年6月2日に本能寺の変のドサクサで落ち武者狩りに遭い、殺されてしまいます。
そして小山田信茂は捕らわれて信長に処刑されました。その罪状が「武田家に対する不忠」とから目も当てられません。
ともあれ甲斐源氏の名門として、数百年にわたり君臨してきた武田家の滅亡は、今も人々に惜しまれています。
※岡部元信の最期
もったいない!高天神城の戦いで、岡部元信(田中美央)の首級を獲ったのは……【どうする家康】

※武田勝頼の残党に対する態度
武田の残党を皆殺し…苛烈な信長に対し、家康はいかに甲州人の心をつかんだか【どうする家康】

■天正伊賀の乱について

伊賀の国衆らを殲滅。信長への恨みが募る(イメージ)
劇中、伊賀国の者たちが信長によって壊滅状態に追い込まれたことが何度か言及されていました。
これは後世に言う「天正伊賀の乱」。信長の次男である織田信雄(演:浜野謙太)が独断で伊賀へ攻め込んで返り討ちに遭ったことを憤り、信長が重ねて派兵した一件を指します。
天正7年(1579年)9月16日に信雄が攻め込み、9月17日に返り討ちされ、9月18日に敗残兵をまとめて引き上げたのでした。
当時の信長は石山本願寺との戦いが優先であったため、和睦して片がついた天正9年(1581年)9月に信長が10万以上の大軍を導入。伊賀方の犠牲者は非戦闘員も含む30,000以上と言われます。
このことから、伊賀者たちは信長を激しく憎みました。当たり前ですね。
劇中で服部半蔵(演:山田孝之)が「伊賀から逃げて来た者らを100名ばかり匿っている。いつでも動けるように手なづけておく」と言ったのは、既に家康が信長の暗殺などを考えていた(その意を受けていた)からと考えられます。
しかし、明智光秀(演:酒向芳)が家康に対して「伊賀を徹底的に滅ぼせ」的なことを言っていたのは時系列的にどうなのでしょうか。
まだ伊賀国内に叛乱の芽がくすぶっていたのか、それとも単に光秀の嫌なヤツぶりを示したかったのでしょうか。
(まぁ勝頼の兜首を持ち出して「さぁ八つ当たりして下さい!」などと言い放ち、辱める露骨な悪役ですから、恐らく後者と思われます)
果たして家康に匿われたこの伊賀者たちが、この後どう活躍してくれるのかどうか、期待しておきましょう。
※織田信雄が返り討ちに遭った合戦
織田信雄(信長次男・浜野謙太)が惨敗!天正伊賀の乱「阿波口の合戦」を紹介【どうする家康】

■ぶらり富士遊覧を楽しむが……家康と別れた後、信長のテンション急降下?

♪てーんーがふぶ(天下布武)ー、天下布武……♪野心を必死に押し殺し、必死にひょうげる家康(イメージ)
さて、武田も滅ぼしてその遺領も配分した信長の帰り道を、家康は全身全霊でおもてなしします(肚の内を隠しながら……)。
大河ツアーズにも言及されていましたが、その行程がこちらです。
4月10日 信長、甲府⇒右左口(うばぐち。甲府市)
※家康がおもてなしを提言
4月11日 右左口⇒本栖(山梨県身延町)
※逆さ富士の絶景
4月12日 本栖⇒大宮(静岡県富士宮市)
※金銀をあしらった豪華な宿所など
※ほか人穴や白糸の滝、乗馬など
4月13日 大宮⇒江尻城(静岡県静岡市)
※三保の松原など
4月14日 江尻城⇒田中城(静岡県藤枝市)
※安倍川越え
4月15日 田中城⇒懸川(静岡県掛川市)
※大井川越え
4月16日 懸川⇒浜松城(静岡県浜松市)
※天龍川越え
4月17日 浜松城⇒吉田(愛知県豊橋市)
※浜名湖見物
4月18日 吉田⇒岡崎城⇒池鯉鮒(愛知県知立市)
※家康と最後の夜
富士山を楽しみながら東海道の名所を見物。その道中は小石一つ落ちていないように整備され、隙間なく護衛を配置、川には橋までかけてしまう念の入れよう(この時代、大きな川には橋などかかっていないのが当たり前でした)。
あちこちに茶屋が作られて一献進上(ちょっと一杯。文中この言葉がしばしば登場)、宿所には金銀まで散りばめられたそうです(そんなカネあったのですね)。
これによって家康の財力と企画力、そして実行力(4月10日に信長へ提言してから翌日~4月18日までの間に、街道の整備を実現)を見せつけたのでした。
そして興味深いのが『信長公記』の記述。こちらをザっと見て下さい(※すごく長いため、めんどくさい方は読み飛ばして大丈夫です)。
四月十日 信長公 東国之儀被仰付甲府ヲ被成御立爰ニ笛吹川とて善光寺より流出る川有橋を懸置かち人渡し申馬共乗こさせられうば口尓至而御陣取 家康公御念被入路次通鉄砲長竹木を皆道ひろひろと作左右尓ひしと無透間警固を被置石を退水をそゝき御陣屋丈夫ニ御普請申ニ付二重三重尓柵を付置其上諸卒之木屋木屋千間尓余御先々御泊御々御屋形之四方ニ作置諸士之間叶朝夕之儀下々悉被申付 信長公奇特と被成御感候いキうわぁ……ビッシリですね。4月10日から4月18日まで、実にイベントが盛りだくさん。
四月十一日 払暁尓うば口より女坂高山被成御上谷合尓 御茶屋御厩結構尓構而一献進上申さるゝかしハ坂是又高山尓て茂りたる事大形ならす左右之大木を伏られ道を作石を退させ山々嶺々無透間御警固を被置かしハ坂之峠尓御茶屋美々敷立置一献進上候也 其日ハもとす尓至て被移御陣もとす尓も 御座所結構ニ輝計ニ相構二重三重尓柵を付させ其上諸士之木屋木屋千間尓余り 御殿之四方尓作置上下之御ま可なひ被仰付御肝煎無是非非次第也
四月十二日 もとすを未明尓出させられ寒じたる事冬之最中之如く也富士の根かたかみのか原井手野尓て御小姓衆何れもみたり尓御馬をせめさせられ御くるひなされ富士山御覧候處高山尓雪積而白雲之如く也誠希有之名山也同根かたの人穴御見物爰尓御茶屋立置一献進上申さるゝ大宮之社人社僧罷出道の掃除申付御禮被申上昔 頼朝かりくちの屋形立られしかみ井手之丸山有西之山尓白糸之瀧名所有此表くハしく被成御尋うき島か原ニ而御馬暫めさせられ大宮尓至て被移御座候いキ 今度北條氏政為御手合出勢候て高国寺かちやうめん尓北條馬を立後走之人数を出し中道通駿河路を相働身方地大宮諸伽藍を初とし而もとす迄悉放火候大宮ハ要害可然尓付て社内尓御座所一夜之 為御陣宿鏤金銀それぞれの御普請美々敷被仰付四方ニ諸陣の木屋木屋懸置御馳走不斜爰ニ而
一御脇指作吉光 一御長刀作一文字 一御馬 黒駁 以上 家康卿へ被進何れも御秘蔵之御道具也
※4月13日~4月17日は割愛。
四月十八日 吉田川乗こさせられ五位ニ而御茶屋美々敷被立置西入口ニ結構ニ橋を懸させ御風呂新敷被立珍物を調一献進上大形ならぬ御馳走也本坂長澤皆道山中尓て惣別石高也今度金棒を持而岩をつき砕かせ石を取退平ラニ被申付爰ニ山中之宝蔵寺御茶屋西尓結構尓構而寺僧喝食老若罷出御禮申さるゝ正田之町より大比良川古させられ岡崎城之腰むつ田川矢はせ川尓ハ是又造作ニテ橋を懸させ可ち人渡し被申御馬共ハ乗こさせられ矢はきの宿を打過て池鯉鮒尓至て御泊 水野宗兵衛 御屋形を立而御馳走候し也
※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事
しかし、これが家康と別れた後はこうなります。
四月十九日 清洲迄御通【まとめて意訳】4月19日、清州に到着。4月20日、岐阜に到着。4月21日岐阜から安土にお帰りのところに(以下略)
四月廿日 岐阜へ被移御座
四月廿一日 濃州岐阜より安土へ御帰陣之處ニ……(以下略)
※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事
※4月19日、4月20日は原文ママ(それぞれ一行のみ)です。
……もう何とも実にアッサリと言いますか。書くのもめんどくさそうな(とりあえず事務的に描いている)空気を感じますね。
『信長公記』は信長自身ではなく、側近の太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかず)が書いたものですが、これは彼が側近く仕えている信長のテンションも少なからず影響しているのではないでしょうか。
(実は大好きな)家康がお見送りしてくれるのは徳川領内まで。織田領内に入って家康と別れたら、急につまんなくなって「あーあ、さっさと帰ろ!」と思ったのかも知れませんね。
でも大丈夫。この翌月(天正10・1582年5月)に家康を安土に招待しますから、信長も寂しくありませんね。それまで我慢できますよね?
※家康が「今川氏真(演:溝端淳平)に駿河国を返していいですか?」と尋ねたエピソード
【大河ドラマ予習】武田勝頼が滅亡、恩賞として得た駿河国を、今川氏真に返す?どうする?【どうする家康】

■第27回放送「安土城の決闘」

今は耐えろ。踊り狂ってひた耐えろ……しかし、ここまで露骨にキャラ変したら、逆に怪しまれそうなものではある。しかし野暮は言いっこなしである(イメージ)
さて、久しぶり(前がいつかは忘れました)にちゃんと時代劇していた「どうする家康」。
変に現代的な思想を盛り込んでいない(ように見える)辺りがよかったんじゃないかと思います。
先週までとの整合性は忘れて下さい。築山殿事件は決して瀬名の妄想ユートピアに起因する自業自得などではなく、信長がとにかく問答無用で悪かったのです。
今週だけを切り取って観れば、信長の接待をさせられる家臣たちの悔しさも、家康の海老すくいもなかなか感じ入るものでした。
仮に筆者が徳川家臣の一人だったとしても、一緒になって踊ったことでしょう。
(※)それにしても……今回がよかった分、この半年間、特に築山殿事件の強引なストーリー展開が勿体なかったですね。これからは別作品が始まったくらいの心持ちで見届けましょう。ホラ、昔から「男子三日会わざれば、刮目して見うべし」と言いますし。
……さて、次週の第27回放送は「安土城の決闘」。信長に招かれた家康は、光秀とどんな暗闘を繰り広げるのでしょうか。
予告編の「そろそろ、おらんくなってくれんかしゃん」という秀吉のセリフが、なかなか不穏。果たして本能寺の黒幕は、家康か秀吉か……実行犯は、恐らく光秀でしょうけど。
後半に入って、ようやく面白くなりそうな兆しを見せる「どうする家康」。来週も期待したいですね!
※参考文献:
- 『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 後編』NHK出版、2023年5月
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 百地織之助 訂『伊乱記』国立国会図書館デジタルコレクション
- 太田牛一『信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan