徳川家康(演:松本潤)は多くの側室がいたことで有名ですが、その一人である於愛の方(演:広瀬アリス。西郷局)との間には長丸(ちょうまる)と福松丸(ふくまつまる)を授かりました。
徳川秀忠(画像:Wikipedia)
この長丸が後の徳川秀忠(ひでただ)。後に江戸幕府の第2代将軍となる人物です。
果たして彼はどんな生涯をたどるのか……今回は『名将言行録』より、徳川秀忠の幼少期エピソードを紹介したいと思います。
■勉強中に牛が乱入!しかし秀忠は……
そんな秀忠が13歳の時……という事は、天正7年(1579年)生まれなので天正19年(1591年)の事となります。
勉強熱心な秀忠は、家臣に書物を読ませてこれを聴いていたのですが、どういう訳か牛が乱入してきました。
乱入してきた牛(イメージ)
ちょっと待って下さい。ふつう若君が勉強すると言えば城内のはず。そんなところまで牛がやって来たのでしょうか。
あるいは牛が近くにいるようなところ、例えばわざわざ農家などへ出向いて勉強……したとはちょっと考えにくいですね。
とにかく牛は秀忠の近くまでやって来て、誰も止めることが出来なかったのでしょう。ということは、よほど凄まじい勢いで突っ込んで来たものと考えられます。
果たして牛は戸やら障子を突き破って大暴れ。当然ながら現場は騒然となりました。
しかし秀忠は微塵も慌てず騒がず、家臣に命じて書物を読み続けさせたと言います。
秀忠は日ごろから授業中「足をもって節をなす」つまり足をトントンしてリズムをとっていたようですが、この時も変わらぬリズムを刻んでいたそうです(でも、何だかうるさそうですね)。
まったく、どいつもこいつも騒がしくて集中できぬ……少しは静かにできんのか(その足トントンは……いえ、何でもありません)。
授業が終わり(最後まで授業を続けた家臣も凄いですね)、腹立たしく周囲を見回した秀忠。ただ、怒ってもしょうがないので何もいわず、涼しい顔で立ち去ったのでした。
■終わりに
結局、暴れ牛はどうなったのだろうか(イメージ)
そう語って聞かせたのは小幡景憲(おばた かげのり)。武田家臣の子孫で、甲州流軍学の祖として名高い人物です。
「秀忠様の仁徳や度量は、たとえ神祖(家康)といえども敵わなかったのではなかろうか……」
武将としての才覚よりも、為政者としてすぐれた徳をあらわす秀忠。続けて景憲は語りました。
「秀忠様は幼い頃から学問に励まれていたが、儒学の絵空事(戯談)と侮らず、その本質を知る希有な方にあらせられる」
理想的な世の在り方を追い求め、家康から安寧の世を受け継いだ秀忠。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どのような活躍をするのでしょうか。キャスティングと合わせて、楽しみですね!
※参考文献:
……七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし 台徳院太政大臣の御事なり。御母君は西郷の局と申。さしつづき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩中将忠吉卿とぞ申き。……※ここで言う三郎とは岡崎三郎(長男・松平信康)ではなく、単に家康の三男を意味します。
※『東照宮御実紀』巻三 天正六年-同七年「天正七年秀忠生」
徳川秀忠(画像:Wikipedia)
この長丸が後の徳川秀忠(ひでただ)。後に江戸幕府の第2代将軍となる人物です。
果たして彼はどんな生涯をたどるのか……今回は『名将言行録』より、徳川秀忠の幼少期エピソードを紹介したいと思います。
■勉強中に牛が乱入!しかし秀忠は……
徳川家康の第三子、征夷大将軍に任じ、累遷して従一位太政大臣と為る。寛永九年正月二十四日薨、年五十四、正一位を贈らる。秀忠は幼いころから、人並み外れて仁徳や度量にすぐれていたそうです。
秀忠幼年より徳量人に絶せり。十三歳の時、侍臣をして書を読ましめ、之を聴き居し所に、俄に牛あり、外より突き入り戸障子盡く倒れ、泣然として聲あり、近侍の士皆錯愕措を失せり、秀忠神色恬然たり。秀忠業を習ふ毎に、足を以て節を為せり、是時従容として節を撃つこと平常に異ならず、既に業終りければ、起出て左右を怒り見ること良(やゝ)久し、去れども何も言はるゝことなし、……
※『名将言行録』巻之四十二 ○徳川秀忠
そんな秀忠が13歳の時……という事は、天正7年(1579年)生まれなので天正19年(1591年)の事となります。
勉強熱心な秀忠は、家臣に書物を読ませてこれを聴いていたのですが、どういう訳か牛が乱入してきました。

乱入してきた牛(イメージ)
ちょっと待って下さい。ふつう若君が勉強すると言えば城内のはず。そんなところまで牛がやって来たのでしょうか。
あるいは牛が近くにいるようなところ、例えばわざわざ農家などへ出向いて勉強……したとはちょっと考えにくいですね。
とにかく牛は秀忠の近くまでやって来て、誰も止めることが出来なかったのでしょう。ということは、よほど凄まじい勢いで突っ込んで来たものと考えられます。
果たして牛は戸やら障子を突き破って大暴れ。当然ながら現場は騒然となりました。
しかし秀忠は微塵も慌てず騒がず、家臣に命じて書物を読み続けさせたと言います。
秀忠は日ごろから授業中「足をもって節をなす」つまり足をトントンしてリズムをとっていたようですが、この時も変わらぬリズムを刻んでいたそうです(でも、何だかうるさそうですね)。
まったく、どいつもこいつも騒がしくて集中できぬ……少しは静かにできんのか(その足トントンは……いえ、何でもありません)。
授業が終わり(最後まで授業を続けた家臣も凄いですね)、腹立たしく周囲を見回した秀忠。ただ、怒ってもしょうがないので何もいわず、涼しい顔で立ち去ったのでした。
■終わりに

結局、暴れ牛はどうなったのだろうか(イメージ)
小幡景憲嘗て人に語て曰く、公の徳量の如きは、神祖と雖も殆んど之に尚(まさ)ることなしと。又曰く、公幼より学を講ぜられしかども儒学を以て戯談と爲さず之を以て知る者罕(まれ)なりと云ふ。……「……ということがあったのじゃ」
※『名将言行録』巻之四十二 ○徳川秀忠
そう語って聞かせたのは小幡景憲(おばた かげのり)。武田家臣の子孫で、甲州流軍学の祖として名高い人物です。
「秀忠様の仁徳や度量は、たとえ神祖(家康)といえども敵わなかったのではなかろうか……」
武将としての才覚よりも、為政者としてすぐれた徳をあらわす秀忠。続けて景憲は語りました。
「秀忠様は幼い頃から学問に励まれていたが、儒学の絵空事(戯談)と侮らず、その本質を知る希有な方にあらせられる」
理想的な世の在り方を追い求め、家康から安寧の世を受け継いだ秀忠。
『名将言行録』は史料としての信憑性には乏しいものの、人々から「秀忠ならさもありなん」と思わせるだけの素養は備えていたことでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どのような活躍をするのでしょうか。キャスティングと合わせて、楽しみですね!
※参考文献:
- 岡谷繁実『名将言行録(五)』国立国会図書館デジタルコレクション
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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