この三景物の中の“七月の燈篭”には、ある一人の太夫が関係しています。
その名を“玉菊(たまぎく)”といいました。
いったい“玉菊”とはどんな遊女でどういう関係があるのか、ご紹介していきます。
■太夫・玉菊とは
歌川国貞 古今命婦伝_中万字の玉菊 ウィキペディアより
玉菊とは角町中万字屋勘兵衛お抱えで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲などあらゆる芸に長けた才色兼備の遊女で、太夫にまでのぼりつめ全盛を極めました。
玉菊はまた“河東節”の三味線の名手であり、“拳”の妙手でした。
“河東節”とは浄瑠璃の一種であり、主に吉原との関係が深くお座敷芸として好まれました。三味線は細棹で、語り口は豪気でさっぱりとした粋なものだと言われています。
“拳”とはお座敷遊びの一つ“拳相撲”という今の“じゃんけん”の元と言われる遊びで、上掲の浮世絵で玉菊が手に持っているのが、黒いビロードの布で拳のまわしを作り、金糸で紋を縫わせて“拳”相撲に使ったとされています。
玉菊はその人柄も気前がよく、人々から大変敬愛された人物でした。
5代目奈良屋茂左衛門をパトロンにもち、そのぜいたくな暮らしぶりは数多くの伝説を生みましたが、大酒がたたり享保11年の3月に25歳という若さで亡くなりました。
■玉菊灯篭

「五節句ノ内 文月」(部分)画:香蝶樓國貞 出典:都立中央図書館
玉菊のいた角町中万字屋では、新盆のときに玉菊の追善供養として切子燈篭を店に燈したところ、店はとても繁盛したと言われています。
そのためお盆の時期には吉原中の店中が切子燈篭を飾るようになったという説や、
玉菊を愛した有志の人々がお金を出し合い燈篭を飾ったのがはじまりという説もあります。

「青楼絵抄年中行事 上之巻」十返舎一九 国立国会図書館デジタルコレクションより
どちらにせよこれが「玉菊燈篭」と呼ばれるほど盛んとなり、その賑わいが“吉原の三景物”の一つ“七月の燈篭”と呼ばれるようになったのです。
比類を見ないほど人々に愛されたという太夫・玉菊。歌舞伎や浄瑠璃の題材に数多くとりあげられた実在の人物なのです。そのお墓が、東京・台東区の永見寺に残されています。
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