■情報収集を怠らなかった江戸幕府

ひと昔前は、幕末を舞台にした時代劇などでは、いわゆる「黒船来航」に幕府は次のように対応したと説明されるのが常でした。

すなわち、ペリー率いる艦隊がアメリカ大統領の国書を持って来航し、武力を盾にして開国を要求した。
幕府は準備不足だったためそれを拒むことができず、外圧に屈する形で開国することにした……と。

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下田のペリー艦隊来航記念碑

しかし近年の歴史研究では、このようなイメージは史実と全く異なることが分かっています。実際には、ペリーが来航するという情報を、幕府は長崎のオランダ商館を通して事前に把握していたのです。

また、実はペリーがやってくるよりも10年以上も前から、アメリカ船はしょっちゅう日本近海に表れていました。それだけではなくイギリスやロシアの船も多く、このため幕府は清国やオランダを通じて海外諸国や外国船の動向を注視していたのです。

■鎖国時代の国際関係史!?

では、ペリーの「黒船来航」以前に、徳川幕府は諸外国とどのようにやり取りをしていたのでしょうか。このような観点から見ていくと、今までは「鎖国」で完全に閉じられていたというイメージだった江戸時代の日本の、知られざる「国際関係史」が浮かび上がってきます。

まず、ペリーがやってくるよりも半世紀以上前に日本との通商交渉を求めた国がロシアです。1778年、ロシア船が蝦夷地を訪れて通商を要求してきましたが、松前藩は拒否しました。

ペリーの来航は予定通り!?黒船&ペリーの来航を最初から知っていた江戸幕府の情報網


江戸時代、北前船で繁栄した北海道江差町の鴎島(かもめじま)

その後も、欧米諸国はアジアへの市場拡大のために日本近海に頻繁に出没します。彼らにとっては、エネルギー源である鯨油の確保が重要課題だったのです。

こうした状況を受けて、1825年に出されたのが異国船打払令です。
幕府は武力による外国船の撃退を許可したのでした。

ただその後、1842年にはこの令の内容も緩和され、外国船に対しては物資を与えて穏便に帰国してもらうようになります。

またペリーがやってくる7年前には、アメリカ海軍のビッドル提督が率いる艦隊が、やはり浦賀沖に現れています。彼はペリーと同じように大統領の親書を携えてきました。この時は、幕府の老中首座だった阿部正弘が鎖国を理由に拒否しています。



■ペリーの来航は「予定通り」

ただ、阿部は、いずれ外国に対して開国することは避けられないと考えていたようです。彼は、1845年にはアメリカ船が日本人の漂流民を救出し、その受け渡しのために外国船が浦賀へ入港できるように説得するなど、鎖国体制にこだわらない柔軟なやり方を採用しています。

またペリーが来航する前から、彼は外交・国防政策を強化しており、開明派の幕臣や大名の意見にも耳を傾ける姿勢を見せていました。

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阿部正弘(Wikipediaより)

こうした幕府の姿勢に応えて、長崎のオランダ商館も常々アメリカ船の来航に注意するよう幕府に呼びかけていました。なんと、1853年の黒船来航の折には、ペリーの年齢や乗組員の人数まで把握していたと言われています。

実はペリーは浦賀に現れる前の4月19日に琉球王国にも上陸していますが、これも薩摩藩からの報告によって幕府は知っていました。

こうしたことからも、幕府にとってペリー来航は「想定内」どころかもはや「予定通り」に起きた出来事だったことが分かるでしょう。


有力な老中の間では、最初から開国を検討する話になっていましたし、あとは国内世論を調整しながら交渉し、スムーズな条約締結を目指すばかりの状態だったのです。

参考資料
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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