【前編】では、江戸時代に薩摩藩がどんどん財政難に追い込まれ、多額の借金をせざるを得ないところまで追い込まれた経緯を解説しました。
参考にしちゃダメ!?財政難に陥った薩摩藩の驚くべきブラックな藩政・経済改革【前編】
【後編】では、この借金問題を解決するために薩摩藩が採った驚くべき方法を説明します。
■250年の返済期限
薩摩藩の藩政改革は、文政11年(1828年)に藩主となった島津斉興と、彼に改革主任として登用された家老・調所広郷(ずしょ・ひろさと)の二人が中心となって行われました。
島津斉興(Wikipediaより)
改革の中心となったのは、徹底した倹約による財政改革です。また領内の商業活動や交易を奨励し、領内外の商人との結びつきを強化。琉球王国や外国との密貿易も行います(ちなみに調所はこの密貿易が幕府にばれて服毒自殺に追い込まれました)。
さらに、借金の返済期限を勝手に無利息の250年分割払いというあり得ない内容に変更し、そのかわり商人には砂糖販売の利権を与えて、この事実上の踏み倒しを承諾させるという手段を採ったのです。
ちなみに黒砂糖を専売制にしたことで、当時砂糖を生産していた奄美大島・徳之島・喜界島の人々の生活は窮乏しました。
こうした改革によって薩摩藩は年収を増やし、備蓄金を増やして借金を返済していくことに成功します。しかし、ここまでやっても完済には至りませんでした。
■廃藩置県による棚ぼた
ではその後、この借金はどうなったかというと、廃藩置県による制度の変化によってチャラとなったのです。
明治維新後、新政府は旧幕府や旧藩の権力を剥奪するために廃藩置県を実施しました。これによって、旧藩は廃止されて県に統合され、旧藩主や旧家老は官職や俸禄を失います。
そして旧藩の法的・経済的な基盤が崩壊したため、借金の債権者や債務者の関係も曖昧になり、借金の返済を強制することは不可能になったのです。
また、返済期間250年という長い目で見ると、インフレによって金銭の価値が変動したこともあり、時代が下るにしたがって相対的に借金の金額は小さくなっていったとも言われています。
薩摩藩の財政改革に命を賭した調所広郷(Wikipediaより)
まさかそうなることまで予測していたわけではないでしょうが、長い目で見れば、そういう意味でも結果的に薩摩藩は「うまくやった」と言えそうです。もちろん、こんなやり方は今では到底認められませんし、誰でも真似できるわけでもありませんが。
薩摩藩といえば、幕末期には討幕派となり明治時代には長州藩と並んで新政府を牽引する役目を負ったわけですが、さらに深く見ていけば、倒幕を実現し新政府で権力を握ることによって、自藩の借金の踏み倒しまで実現させてしまったと言えるかも知れません。
参考資料
鹿児島県
尚古集成館
参考にしちゃダメ!?財政難に陥った薩摩藩の驚くべきブラックな藩政・経済改革【前編】
【後編】では、この借金問題を解決するために薩摩藩が採った驚くべき方法を説明します。
■250年の返済期限
薩摩藩の藩政改革は、文政11年(1828年)に藩主となった島津斉興と、彼に改革主任として登用された家老・調所広郷(ずしょ・ひろさと)の二人が中心となって行われました。

島津斉興(Wikipediaより)
改革の中心となったのは、徹底した倹約による財政改革です。また領内の商業活動や交易を奨励し、領内外の商人との結びつきを強化。琉球王国や外国との密貿易も行います(ちなみに調所はこの密貿易が幕府にばれて服毒自殺に追い込まれました)。
さらに、借金の返済期限を勝手に無利息の250年分割払いというあり得ない内容に変更し、そのかわり商人には砂糖販売の利権を与えて、この事実上の踏み倒しを承諾させるという手段を採ったのです。
ちなみに黒砂糖を専売制にしたことで、当時砂糖を生産していた奄美大島・徳之島・喜界島の人々の生活は窮乏しました。
こうした改革によって薩摩藩は年収を増やし、備蓄金を増やして借金を返済していくことに成功します。しかし、ここまでやっても完済には至りませんでした。
■廃藩置県による棚ぼた
ではその後、この借金はどうなったかというと、廃藩置県による制度の変化によってチャラとなったのです。
明治維新後、新政府は旧幕府や旧藩の権力を剥奪するために廃藩置県を実施しました。これによって、旧藩は廃止されて県に統合され、旧藩主や旧家老は官職や俸禄を失います。
そして旧藩の法的・経済的な基盤が崩壊したため、借金の債権者や債務者の関係も曖昧になり、借金の返済を強制することは不可能になったのです。
薩摩藩にとっては、廃藩置県という変革は棚ぼただったわけです。
また、返済期間250年という長い目で見ると、インフレによって金銭の価値が変動したこともあり、時代が下るにしたがって相対的に借金の金額は小さくなっていったとも言われています。

薩摩藩の財政改革に命を賭した調所広郷(Wikipediaより)
まさかそうなることまで予測していたわけではないでしょうが、長い目で見れば、そういう意味でも結果的に薩摩藩は「うまくやった」と言えそうです。もちろん、こんなやり方は今では到底認められませんし、誰でも真似できるわけでもありませんが。
薩摩藩といえば、幕末期には討幕派となり明治時代には長州藩と並んで新政府を牽引する役目を負ったわけですが、さらに深く見ていけば、倒幕を実現し新政府で権力を握ることによって、自藩の借金の踏み倒しまで実現させてしまったと言えるかも知れません。
参考資料
鹿児島県
尚古集成館
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