戦国時代における織田家と羽柴(豊臣)家もその例にもれず、かつて父(織田信長)の草履取りだった男(羽柴秀吉)に隷従することを余儀なくされてしまいました。
今回は信長が遺した娘たちの中から、三ノ丸殿(さんのまるどの)と呼ばれた女性を紹介。果たして彼女は、どのような運命をたどるのでしょうか。
■他のみんなは「室」なのに……12人姉妹で1人だけ「妾」な九女
信長の娘(イメージ)
まずは信長の娘たちについて、江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』を見てみましょう。
女子 母は信忠におなじ。岡崎三郎信康君の室。ざっと読んでみて気づいたのですが、九番目の娘だけ豊臣太閤秀吉の「妾」となっていました。
女子 蒲生飛騨守氏郷が室。
女子 筒井伊賀守定次が室。
女子 前田肥前守利長が室。
女子 丹羽五郎左衛門長重が室。
女子 二條関白昭實公の室。
女子 萬里小路大納言充房が室。
女子 水野東市正忠胤が室、のち佐治與九郎一成に嫁す。
女子 豊臣太閤秀吉の妾、三丸と称す。
女子 中川右衛門大夫秀政が室。
女子 徳大寺中納言實冬が室。
女子 實は苗木勘太郎某が女、信長に養はれて武田四郎勝頼が室となる。
※『寛政重脩諸家譜』巻第四百八十八 平氏(清盛流)織田
妾(めかけ)とは、正式な妻である室(しつ。正室や側室など)や妻(身分が低い者の妻)とは異なり、一段低い扱いとなります。現代で言うなら愛人枠、よくて内縁関係でしょうか。
それにしても、他の8人はみんな「室」として遇されているにも関わらず、この三丸(三ノ丸殿)だけ「妾」扱いされているのは不憫ですね。
これは秀吉が「旧主の娘を妾にしてやったぞ!わしはそれだけ偉くなったんじゃ!」と子供じみたアピールをしたかったのでしょうか。
あるいは秀吉は歓迎したけど、織田家側がそれを嫌って「あの娘は猿の妾にくれてやりました」と切り捨てたかったのかも知れません。
実際のところは分かりませんが、大事な姫を成り上がり者の妾に差し出さねばならなかった織田家側の思いは察するに余りあります。
それでは、そんな三ノ丸殿の生涯をたどってみましょう。
■三ノ丸殿の生涯を駆け足でたどる

妙心寺雑華院 所蔵 三ノ丸殿肖像
そんな三ノ丸殿は生年不詳、母親は長兄・織田信忠(のぶただ)の乳母・慈徳院(じとくいん)と伝わります。
本能寺の変で父が横死を遂げると、異母姉である相応院(そうおういん。信長次女)の夫・蒲生氏郷(がもう うじさと)に保護されました(養女となった説も)。
秀吉の元へ嫁いだ時期や経緯については諸説ありますが、三ノ丸殿という名前が伏見城の三ノ丸に住まいを与えられたためなので、秀吉が伏見城を築きはじめる文禄元年(1592年)ごろと推測されます。
同時期に氏郷の妹・三条殿(さんじょうどの)も秀吉の側室という体で人質に出されており、三ノ丸殿もそうした意味合いがあったのでしょう。
三ノ丸殿が初めて史料に登場するのは慶長(1598年)3月、醍醐の花見。彼女は四番目の輿で参列、側室としては第三位に遇せられていた事がわかります。
(一番目は正室の北政所、二番目は側室の西ノ丸殿=茶々、三番目は同じく松ノ丸殿、五番目は加賀殿)
やがて同年8月に秀吉が亡くなりました。恐らく数年間の結婚生活が、三ノ丸殿にとって幸せであったかどうかは、察するよりほかありません。
ともあれ三ノ丸殿は妙心寺に韶陽院を建立、その菩提を弔いました。
やがて喪が明けた慶長4~5年(1599~1600年)ごろに前関白・二条昭実(にじょう あきざね)と再婚します。
昭実は三ノ丸殿の異母姉(信長六女・さこの方)を娶っていましたが、先立たれていました。姉の夫と再婚するというのは、複雑な気持ちだったかも知れませんね。
ともあれ二度目の結婚生活を始めた三ノ丸殿。しかし慶長8年(1603年)に世を去ってしまいました。
法号は韶陽院殿華厳浄春大禅定尼(しょうよういんでんけごんじょうしゅんだいぜんじょうに)。墓所は京都・妙心寺にあり、雑華院には没後間もなく描かれたと考えられる肖像画が現代に伝わっています。
■終わりに
以上、三ノ丸殿について紹介してきました。天下人の娘として生まれながら成り上がり者の妾にされ、その死後に再婚した生涯は短くも波乱に満ちたものでした。
他の娘たちについても、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月
- 森実与子『戦国の女たち 乱世に咲いた名花23人』学研M文庫、2006年2月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan