本能寺の変で戦死した森乱の兄で「鬼武蔵」の異名を持つ森長可(もり-ながよし)。長可も乱と同様に若くして戦死してしまうのですが、短い生涯の中で多くのエピソードを残しています。
その中には、長可が破天荒と思ってしまうような気性の荒く、型破りな性格が目立ったエピソードもありました。今回は、織田家の猛将・長可の破天荒さがわかるエピソードを紹介します。
森長可/Wikipediaより
■武蔵守の由来
織田信長/Wikipediaより
織田信長が上洛した頃、内裏修理の普請のために諸将を上洛させました。その際に瀬田(現在の滋賀県大津市)の橋に関所を設けました。
関所通過には下馬をして名前を言わないといけないのですが、長可は名乗っただけで関所を通過しようとします。これにはすかさず「下馬をして通られよ」と関守たちは長可を足止めします。
長可は急いでいたこともあってか、あろうことか関守たちを斬り捨て強行突破。また、足止めしようとする町人たちにも町を燃やすと脅しをかけ、強行突破しました。
こうして信長の元に着いた折、関所であったことを説明した上で「切腹して詫びる覚悟」と伝えます。しかし、信長は長可の行動に対して大笑い。
武蔵坊弁慶(右)/Wikipediaより
「昔、五条橋で人を斬った武蔵坊弁慶がいた。お前も橋で人を斬ったのだから、弁慶にあやかって今後は武蔵守と名乗るように」と言いました。
しかしながら、長可が武蔵守を名乗り始めるのは信長死後の天正11年(1583)のことです。創作ではありますが、エピソードから長可の気性の荒さと信長から寵愛されていたことがうかがえます。
■甲州征伐で2度の軍規違反
仁科信盛/Wikipediaより
次は天正10年(1582)の甲州征伐の頃。25歳の長可は、先鋒部隊に同い年の団忠正と抜擢されます。2人は松尾城や飯田城といった武田が守る城を次々と落としていきました。
そして、仁科信盛が守る高遠城を攻める際、信長より織田信忠率いる本隊が到着するまで前進は控えるよう命令されていました。
しかし、2人はそれを無視して鉄砲を撃ちかけ前進するという軍規違反を犯しました。これについて信長より書簡で注意を受けますが、9日後にも同じことを犯して再度信長に注意されるほど、血気盛さが目立った若武者でした。
その後は信忠の本隊と合流し、高遠城を落城させています。
■神蛇を喰らう
小牧・長久手の戦い/Wikipediaより
最後に紹介するエピソードは小牧・長久手の戦いの頃。羽黒の戦いで敗走した長可は、部隊編成の陣を張るため、二ノ宮の森の神社まで移動していました。
これを聞いた長可は「何を言っているんだこの神主は。不満があるなら鉄砲で撃ち抜くぞ!!」と激怒。
すると、長さ約3メートルの蛇が長可たちの前に現れました。「これがこの神社の御神体です!」と神主は伝えますが、長可は怯まず部下に命じて蛇を斬り刻みます。
そして、長可は刻まれた蛇を生のまま三口食べました。この様子に身の毛がよだった神主はその場から立ち去ったのでした。
■実は家族と部下思いの長可
ここまで長可の破天荒と思えるエピソードを紹介しましたが、家族や部下を思いやるギャップがありました。
それが顕著だったのは、遺言で弟の忠政は秀吉の奉公衆とすることと娘のおこうを京都の町医者のような人物に嫁がせるよう書き残したことです。
自身がいつ死ぬかわからないこともあり、2人には戦場とは程遠い場所に行かせたかった長可の優しさがうかがえます。また、三木合戦で負傷した重臣・各務元正(かがみ-もとまさ)の元に毎晩見舞いに行ったというエピソードもありました。
このように長可には先で紹介した破天荒さと裏腹に意外な一面があり、そこが長可の魅力と言っても過言ではありません。
トップ画像(右):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式ページより
その中には、長可が破天荒と思ってしまうような気性の荒く、型破りな性格が目立ったエピソードもありました。今回は、織田家の猛将・長可の破天荒さがわかるエピソードを紹介します。
森長可/Wikipediaより
■武蔵守の由来

織田信長/Wikipediaより
織田信長が上洛した頃、内裏修理の普請のために諸将を上洛させました。その際に瀬田(現在の滋賀県大津市)の橋に関所を設けました。
関所通過には下馬をして名前を言わないといけないのですが、長可は名乗っただけで関所を通過しようとします。これにはすかさず「下馬をして通られよ」と関守たちは長可を足止めします。
長可は急いでいたこともあってか、あろうことか関守たちを斬り捨て強行突破。また、足止めしようとする町人たちにも町を燃やすと脅しをかけ、強行突破しました。
こうして信長の元に着いた折、関所であったことを説明した上で「切腹して詫びる覚悟」と伝えます。しかし、信長は長可の行動に対して大笑い。

武蔵坊弁慶(右)/Wikipediaより
「昔、五条橋で人を斬った武蔵坊弁慶がいた。お前も橋で人を斬ったのだから、弁慶にあやかって今後は武蔵守と名乗るように」と言いました。
信長のこの発言によって、長可はお咎めない上に武蔵守を名乗る許可も得たのでした。
しかしながら、長可が武蔵守を名乗り始めるのは信長死後の天正11年(1583)のことです。創作ではありますが、エピソードから長可の気性の荒さと信長から寵愛されていたことがうかがえます。
■甲州征伐で2度の軍規違反

仁科信盛/Wikipediaより
次は天正10年(1582)の甲州征伐の頃。25歳の長可は、先鋒部隊に同い年の団忠正と抜擢されます。2人は松尾城や飯田城といった武田が守る城を次々と落としていきました。
そして、仁科信盛が守る高遠城を攻める際、信長より織田信忠率いる本隊が到着するまで前進は控えるよう命令されていました。
しかし、2人はそれを無視して鉄砲を撃ちかけ前進するという軍規違反を犯しました。これについて信長より書簡で注意を受けますが、9日後にも同じことを犯して再度信長に注意されるほど、血気盛さが目立った若武者でした。
その後は信忠の本隊と合流し、高遠城を落城させています。
■神蛇を喰らう

小牧・長久手の戦い/Wikipediaより
最後に紹介するエピソードは小牧・長久手の戦いの頃。羽黒の戦いで敗走した長可は、部隊編成の陣を張るため、二ノ宮の森の神社まで移動していました。
そこに現れた神主からは「ここの神は穢れを嫌います。穢れ無き者以外は立ち去りなさい」と伝えました。
これを聞いた長可は「何を言っているんだこの神主は。不満があるなら鉄砲で撃ち抜くぞ!!」と激怒。
すると、長さ約3メートルの蛇が長可たちの前に現れました。「これがこの神社の御神体です!」と神主は伝えますが、長可は怯まず部下に命じて蛇を斬り刻みます。
そして、長可は刻まれた蛇を生のまま三口食べました。この様子に身の毛がよだった神主はその場から立ち去ったのでした。
■実は家族と部下思いの長可
ここまで長可の破天荒と思えるエピソードを紹介しましたが、家族や部下を思いやるギャップがありました。
それが顕著だったのは、遺言で弟の忠政は秀吉の奉公衆とすることと娘のおこうを京都の町医者のような人物に嫁がせるよう書き残したことです。
自身がいつ死ぬかわからないこともあり、2人には戦場とは程遠い場所に行かせたかった長可の優しさがうかがえます。また、三木合戦で負傷した重臣・各務元正(かがみ-もとまさ)の元に毎晩見舞いに行ったというエピソードもありました。
このように長可には先で紹介した破天荒さと裏腹に意外な一面があり、そこが長可の魅力と言っても過言ではありません。
トップ画像(右):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式ページより
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