昔懐かし昭和レトロな雰囲気のものから、最新技術を駆使したものまで様々な種類があるお化け屋敷。
初めて日本に登場したのは江戸後期で、「医師」が自宅に庭に作った「大森の化け物小屋」が始まりです。
前編の記事はこちら
日本初のお化け屋敷は江戸時代の医師が作った「化け物茶屋」!大人気になるも「けしからん!」と撤去され…【前編】
■日本発のお化け屋敷は「大森の化け物小屋」
河鍋暁斎による肉筆画。百鬼夜行絵巻に登場している妖怪(写真:wikipedia)
日本初のお化け屋敷は、天保時代、江戸の町医者だった「瓢仙(ひょうせん)」が自分の庭に作ったものでした。
小屋の壁や天井まで、いっぱいに「百鬼夜行」(※)を極彩色で描いたり、さらに「一つ目小僧」などの妖怪の細工人形なども飾り付けたもので、当時は怖いもの見たさの人々の間で大評判となり「大森の化け物小屋」として、多くの見物客に賑わったそうです。
しかしながら、その噂が代官の耳に届き「医師でありながらこのようなものを作るなど不真面目だ!けしからん!」ということで撤去を命じられてしまったのです。
※百鬼夜行:深夜に徘徊する鬼や妖怪の群れ・その行進で、平安時代から人々の間で伝えられている
佐脇嵩之『百怪図巻』より「目一つ坊」(写真:wikipedia)
■今のお化け屋敷に近い「変死人形競」
そして、その数年後。江戸・両国の回向院で井ノ頭弁財天のご開帳の際、いろいろな催し物がでたなか、「変死人形競(くらべ)」というお化け屋敷のような見世物小屋もあったそう。
また、天保7年に両国で興行された「寺島仕込怪物問屋(てらしまじこみばけものどんや)」という見世物小屋もあり、さまざまな怪物話の芝居の一場面を細工人形で再現したものも大人気となりました。
「変死人形競」では、浅草に住む泉目吉(いずみめきち)という有名な人形師の作品が評判で、女性の生首・獄門晒し首・土左衛門・棺桶の割れ目から飛び出た亡霊の首ほか、非常にリアルな作りものが高い評判を呼んだそうです。
どちらも、現代のお化け屋敷の原型として伝わっています。
当時は、現代のように明るくはなく、日が落ちると暗闇のほうが勝っていた時代。精巧な作りの人形はさぞかし怖かったことでしょう。
歌川国芳 『浅草奥山生人形』(1855年)の手長足長(写真:wikipedia)
■「納涼」には欠かせない興行に
昔ながらのお化け屋敷の看板(写真:photo-ac)
さらに、明治から大正時代に入ると、日本各地で「お化け屋敷」が登場するようになり、お化けに出会って思わず「ひやっ」とするからと、「納涼」と頭に付けて夏の風物詩となりました。
昭和に入り、遊園地だけではなく商業施設の屋上などにも設置され、学校の学園祭などでも登場するようになりとどんどん認知度が高まったお化け屋敷。
さらに、現代では、最新技術を駆使したハイレベルなものが次々と登場し、子供から大人まで楽しむエンターテイメント施設へと進化したのです。
今回は2回にわたり日本初のお化け屋敷について紹介しました。最後までお読みいただきありがとうございました。
兵庫県鍛冶屋秋祭りのお化け屋敷(写真:wikipedia)
初めて日本に登場したのは江戸後期で、「医師」が自宅に庭に作った「大森の化け物小屋」が始まりです。
また、その後、生首や土左衛門などリアルな人形細工を並べた、今のお化け屋敷に近いものも誕生しました。
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日本初のお化け屋敷は江戸時代の医師が作った「化け物茶屋」!大人気になるも「けしからん!」と撤去され…【前編】
■日本発のお化け屋敷は「大森の化け物小屋」

河鍋暁斎による肉筆画。百鬼夜行絵巻に登場している妖怪(写真:wikipedia)
日本初のお化け屋敷は、天保時代、江戸の町医者だった「瓢仙(ひょうせん)」が自分の庭に作ったものでした。
小屋の壁や天井まで、いっぱいに「百鬼夜行」(※)を極彩色で描いたり、さらに「一つ目小僧」などの妖怪の細工人形なども飾り付けたもので、当時は怖いもの見たさの人々の間で大評判となり「大森の化け物小屋」として、多くの見物客に賑わったそうです。
しかしながら、その噂が代官の耳に届き「医師でありながらこのようなものを作るなど不真面目だ!けしからん!」ということで撤去を命じられてしまったのです。
※百鬼夜行:深夜に徘徊する鬼や妖怪の群れ・その行進で、平安時代から人々の間で伝えられている

佐脇嵩之『百怪図巻』より「目一つ坊」(写真:wikipedia)
■今のお化け屋敷に近い「変死人形競」
そして、その数年後。江戸・両国の回向院で井ノ頭弁財天のご開帳の際、いろいろな催し物がでたなか、「変死人形競(くらべ)」というお化け屋敷のような見世物小屋もあったそう。
また、天保7年に両国で興行された「寺島仕込怪物問屋(てらしまじこみばけものどんや)」という見世物小屋もあり、さまざまな怪物話の芝居の一場面を細工人形で再現したものも大人気となりました。
「変死人形競」では、浅草に住む泉目吉(いずみめきち)という有名な人形師の作品が評判で、女性の生首・獄門晒し首・土左衛門・棺桶の割れ目から飛び出た亡霊の首ほか、非常にリアルな作りものが高い評判を呼んだそうです。
どちらも、現代のお化け屋敷の原型として伝わっています。
当時は、現代のように明るくはなく、日が落ちると暗闇のほうが勝っていた時代。精巧な作りの人形はさぞかし怖かったことでしょう。

歌川国芳 『浅草奥山生人形』(1855年)の手長足長(写真:wikipedia)
■「納涼」には欠かせない興行に

昔ながらのお化け屋敷の看板(写真:photo-ac)
さらに、明治から大正時代に入ると、日本各地で「お化け屋敷」が登場するようになり、お化けに出会って思わず「ひやっ」とするからと、「納涼」と頭に付けて夏の風物詩となりました。
昭和に入り、遊園地だけではなく商業施設の屋上などにも設置され、学校の学園祭などでも登場するようになりとどんどん認知度が高まったお化け屋敷。
さらに、現代では、最新技術を駆使したハイレベルなものが次々と登場し、子供から大人まで楽しむエンターテイメント施設へと進化したのです。
今回は2回にわたり日本初のお化け屋敷について紹介しました。最後までお読みいただきありがとうございました。

兵庫県鍛冶屋秋祭りのお化け屋敷(写真:wikipedia)
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