今回は、そんな平安時代に関白となった人物の一人である「藤原道兼(ふじわらのみちかね)」をご紹介します。
今回ご紹介する「藤原道兼」は、父「藤原兼家」、母「藤原時姫(ときひめ)」のもと、961年(天徳5年・応和元年)に生まれました。同母の弟妹に詮子や道長らがいます。
■父の意を受け、花山天皇を出家・退位させる
984年(永観2年)に花山天皇が即位すると、藤原道兼は「蔵人頭(くろうどのとう)」という秘書のような役割を持つ側近として彼に仕えました。しかし、父の藤原兼家は、詮子の子どもであり、後に一条天皇となる「懐仁親王」の早期即位を望んでいたため、花山天皇の退位をもくろみます。
花山天皇はちょうどそのころ、寵愛していた女御の死を受け、思い悩むようになっていました。そこに、側近である藤原道兼が父の意を受け、天皇に出家・退位をすすめます。しかしそれが、「自分(道兼)も出家します」と約束し、天皇をだますような形だったのです。
実際、花山天皇が出家する際に、道兼は「父に別れを告げてきます」と言い、その場から立ち去ってしまうのです。
■兄の後に関白になったけれど……
父・藤原兼家の死後、兼家の長男であり道兼の兄にあたる、藤原道隆(みちたか)が関白になります。兄の道隆が死去すると、道兼が関白になりました。ちなみに、道隆は就任後5年ほどで亡くなったのですが、彼は大酒のみとして知られており、死因は糖尿病だったと言われています。
兄の5年も長くはありませんが、道兼はさらに短い在任期間でした。995年(長徳元年)4月10日に関白になりましたが、同年5月8日に亡くなってしまいます。この短さから、実際は七日ではありませんが「七日関白」と呼ばれています。
■『栄花物語』では散々の言われよう……
写真のなかったこの時代、人々の見た目を知ることは難しいです。しかし、平安時代の歴史物語である『栄花物語』には、藤原道兼についての記述がみられます。それは、「御顔色悪しう毛ぶかく、事の外に見にくくおはする」というもの。簡単に現代語訳すると、「顔色は悪く、毛深く、醜い」といったものでしょうか。性格についても、好感が持てないと言われてしまっています。
ただし、平安時代後期の歴史物語『大鏡』には、藤原実資が体調の悪そうな道兼を見て、「いかでかは、御色も違ひて、きららかにおはする人とも覚えず(どうしてか、お顔の色も違っていて、きらきらして美しい人とは思えない)」という記述が残っています。いつもと違って輝いていない、ということですので、こちらからは普段の良い印象がうかがえますね。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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