いざ仇を前にすれば、積年の怨みを晴らすべく、少しでも惨たらしく殺してやりたい気持ちは解らなくもありません。
しかし中にはそうした私怨を抑えて、天下公益に則した振る舞いをする者もいました。
今回はそんな一人・鳥居成次(とりい なりつぐ)のエピソードを紹介したいと思います。
■伏見城で父を討った石田三成の身柄を預かる
鳥居彦右衛門(鳥井彦右エ門)元忠。歌川芳虎「東照宮十六善神之肖像連座の図」より
鳥居成次は元亀元年(1570年)、鳥居元忠と正室・松平家広女の三男として誕生しました。
鳥居家は代々松平家(徳川家)に仕えた譜代の家臣、鳥居元忠は主君・徳川家康の人質時代から付き従った忠臣です。
通称は久五郎(きゅうごろう)、後に従五位下・土佐守と叙せられました。
時は慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原合戦では家康の下で奮戦して首級を上げたものの、伏見城を守備していた父・元忠は討死してしまいます。
さて、勝利の後に敵の総大将である石田三成(治部)が捕らわれました。さて、処分が決まるまでの間、誰に身柄を預けようか……そうだ。
白羽の矢が立ったのは鳥居成次。久五郎は父を殺されているし、怨みを晴らしたいに違いなかろう。家康はさっそく三成を預けたのでした。
「久五郎よ。そなたに石田治部の身柄を預ける。殺しさえしなければ、何をしてもよいからな」
「御意」
さぁ、思う存分に怨みを晴らすがよいぞ……久五郎はどんな手を使って治部めをなぶり上げるのか楽しみだ……。
果たして家康がワクワクしていたかはともかく、その数日後。
「何、久五郎が治部を手厚くもてなしていると?」
親の仇をなぶりものにするどころか、手厚くもてなすとは一体いかなる了見であろうか。
家康が訝しんでいた翌日、久五郎が謁見に参上してきました。
「久五郎よ。そなたは石田治部めを手厚くもてなしていると聞いたが、一体いかなる了見か?」
親の仇を前にして(命令だから自分の手では討てないにせよ)、少しでも怨みを晴らすべく何かしらをしたかろうに、もてなすなどと仇に同情するような振る舞いは親不孝ではないか。
もっと治部めをなぶり倒してくれなきゃつまんないじゃないか……なんてことは微塵も思っていない家康は、少し避難がましく問いかけました。
それに対して、久五郎が答えて言うには。
「確かに、こたび父は治部らと戦いました。しかし父はあくまで君命をまっとうしたのであり、また生き死には武門の常なれば、治部個人に怨みはありません」
「ほう」そういう考えもあるのか。
「むしろ石田治部めは天下の仇とも言うべき大罪人。私(わたくし)の小さな怨みを問うべきではございませぬ。ですから身柄は、より相応の方が預かるべきかと」
「相分かった。治部めの身柄は、本多佐渡(正信)に預けよう」
かくして三成の身柄は本多正信に引き渡され、天下の人々は久五郎の潔い態度を賞賛したということです。
■終わりに

炎上する伏見城、元忠の最期やいかに(イメージ)
……慶長五年九月関原の役に扈従し首級を得たり。御勝利ののち、父が仇なれば其憤りを慰めよとて石田三成をめしあづけらる。成次厚くこれを饗し、衣服をあたへて慇懃を盡しいさゝか恨るの體なし。三成涙を流してその厚意を感ず。次の日御前に出て台慮の辱を拝し、三成父が讐なりといへども、もとより元忠は君がために一命をたてまつりしなれば、敢て三成が所為といふべからず。依てこれに対してわたくしの恨あるべきやうなし。天下の御敵なれば他人にめしあづけられたまはるべきよしを言上せしかば、御感ありて即本多佐渡守正信にめしあづけらる……以上、関ヶ原合戦に敗れた石田三成を手厚くもてなした鳥居成次のエピソードを紹介してきました。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百六十一 平氏(支流)鳥居
たとえどれほど憎い相手でも、私怨ではなく天下公益の観点から公正に取り扱う態度は、まさしく主君に対する忠義。さすがは三河武士の鑑・鳥居元忠の息子ですね。
その後も大坂の陣で28の首級を上げたり、徳川忠長(秀忠の子、家康の孫)を補佐したりと文武に活躍した鳥居成次。
彼ら武骨な忠義者たちによって家康の天下取りは成し遂げられ、徳川の世は2世紀半の永きにわたり護られたのでした。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan