会議や宴会などにおいて、上座下座と言った序列にこだわるのは日本人だけなのでしょうか。

現代でもそうなのですから、とかく面子や名誉を重んじた武士たちは、そうした序列を守るのに命がけだったものと思われます。


しかし「我らが神の君」こと徳川家康は一味違い、小さなことにこだわらず、謙虚な姿勢で格の違いを見せつけました。

そこで今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より、家康が北条氏政・氏直父子と初めて対面した時のエピソードを紹介。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どのように描かれるでしょうか。

■北条氏政の軍門に降る!?

家康は以前、次女のおふう(督姫。母親は西郡局)を北条氏直に嫁がせました。

無礼にも程がある!北条氏政・氏直父子と対面した神の君・徳川家...の画像はこちら >>


家康の婿となった北条氏直(画像:Wikipedia)

「あれから四年も経つが、いまだ婿殿(北条氏直)や御父上(北条氏政)にご挨拶しておらんのう」

そもそも北条家とは天正壬午の乱(天正10・1582年、織田信長の死によって生じた空白地帯≒武田旧領の争奪戦)で抗争を繰り広げており、その和睦条件として行った政略結婚ですから、両家はあまり友好的ではありません。

「西の豊臣にはひとまず臣従する姿勢をとったものの、東の北条とは少し関係を改善しておこうかのう」

という訳で、家康はさっそく両家の会談を打診しました。すると氏政から快諾の返事が届きます……が。

「黄瀬川を越えていただき、三島でお会いしましょう(意訳)」

これを聞いた徳川家の筆頭家老・酒井忠次が反対しました。

「おやめなされ。黄瀬川を越えなどしたら、世の人々は『徳川が北条の軍門に降った』と思いますぞ」

現代的な感覚だと、そうなの?と不思議に思うものの、しかし「我らが神の君」は忠次を諭します。

「よいか。
かつて武田信玄と上杉謙信はつまらぬ意地の張り合いで15年にも及ぶ抗争を繰り広げ、それがために天下を逃してしまったのだ。もし彼らが力を合わせていたら、信長様もわしらもとうに滅ぼされておっただろう……今は冷静に天下の状況を俯瞰して、どっちが上だの下だのとつまらぬこだわりを捨てて、北条殿と力を合わせるのじゃ」

「……御意」

さすが我らが神の君。しかし、そのような度量が北条方にはあるのでしょうか。思いっきりナメ倒されないか、忠次は心配でなりませんでした。



■初っ端からナメ切った態度

「……やっぱり」

いざ会場に到着した忠次は、心の声が洩れてしまったかも知れません。

無礼にも程がある!北条氏政・氏直父子と対面した神の君・徳川家康は…【どうする家康】


関東の雄・北条氏政(画像:Wikipedia)

それもそのはず。最上座には氏政が堂々と鎮座し、次席には一族の北条氏照(氏政の弟)がふんぞり返っているのですから。

普通こういう時は、ゲストに最上座を譲り、ホストは次席で迎えるものではないでしょうか。

「徳川殿、よう参られたな。さぁさぁ、席につかれるがよいぞ」

当日は忠次の外に井伊直政や榊原康政も随行していましたが、彼らも必死に怒りを堪えたことと思われます。

「ところで徳川殿。上方へはいつ攻め上がろうか?」

酒が回ってきたところで、北条氏規(氏政の兄)が訊ねてきました。


(まったく、今のそなたらが秀吉と正面から戦って、勝てるなどと本気で思うとるのか)

どれほど夜郎自大なのか……とは思っても、今日はお説教に来た訳ではありません。

「まぁ上方のことはひとまず脇に置いておいて、此度は北条家と徳川家の親睦に参ったゆえ、難しい話はまた後日と致しましょう」

とか何とかはぐらかしておきながら、家康は続けました。

「ただ、もし上方と事が起こった際には、それがしが先鋒として京都まで攻め上がりましょう。また奥州で何か起こった際にも、それがしに先鋒をお任せいただければ、三年も待たず賊輩を平らげてご覧に入れましょうぞ」

この申し出に北条家の一同は感心。家康は完全に我らが味方、そう大いに喜んだということです。



■家康の曲舞と忠次のアレ

無礼にも程がある!北条氏政・氏直父子と対面した神の君・徳川家康は…【どうする家康】


酒宴は大盛り上がり(イメージ)

さて、宴も闌(たけなわ)となりまして、家康は曲舞(くせまい。幸若舞)の演目「自然居士(じねんこじ)」を舞いました。

♪~黄帝の臣に貨狄といへる士卒~♪

そんな歌詞を聞いて、北条家臣の松田憲秀と大道寺政繁が口々にはやし立てます。

「方々、徳川殿は我らが殿へ臣従を誓いましたぞ!」

黄帝(こうてい)とは古代中国大陸の聖君、貨狄(かてき)とは彼に仕えて舟を発明したとされる人物。その歌詞がなぜ臣従を誓うことになるのかは分かりませんが、氏政も上機嫌で聞いていました。

このままでは、我らが殿が笑い者にされてしまう……忍びなく思った忠次が進み出て、いつもの「アレ」すなわち「海老すくい」踊りを繰り出します。

♪え~び~すくい、海老すくい……♪

♪海老す~くい、川また、どっこらほどに候(そうも)な……♪

上機嫌だった氏政は、忠次の見事な舞に感心し、自分の太刀を与えました。
もしこれが家康に手渡されでもしていたら、完全に家康は氏政の臣下扱いです。

「ははぁ、有り難き仕合せにございまする……方々、我らはこんな見事な海老をすくい当てましたぞ!」

これで一矢報いてやった……大喜びの徳川家臣らを前に、北条家臣の山角上野介(康定)は忌々しく思いました。

「歌詞の中に『鎌倉下り(※)』とあったが、そなたらは鎌倉まで攻め入るつもりか!」

(※)海老すくいは、主人が冠者(若い家来)に鎌倉海老を買いに鎌倉へ使いにやるところから始まるため、そのような歌詞があります。

が、言いがかりにも程があるでしょう。流石にまずいと思ったのか、大道寺政繁が山角上野介をなだめました。

「まぁまぁ。歌詞の終わりに『たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上り(意:尻にできた白癬が治るよう、熱田神宮へお参りする)』とあるから、もし酒井殿が鎌倉へ攻め下るなら、そなたが熱田神宮まで攻め上がればよかろう」

これは上手いことを言ったものだ……聞いた一同は大いに笑ったということです。



■酔っ払った氏政、家康の指添を奪いとる

「あはぁ~、酔った酔ったぁ~」

海道一の弓取りと恐れられた家康が臣従すると思い込んで、すっかり上機嫌の氏政は、酔いが回って家康の膝に乗りかかりました。

無礼にも程がある!北条氏政・氏直父子と対面した神の君・徳川家康は…【どうする家康】


氏政の酔態に、さすがの家康も困惑(イメージ)

客人の前で主人が酔っ払うなど、あるまじき失態と言えるでしょう。さすがの家康も少々困惑していると、氏政は家康の差していた指添(さしぞえ。脇指)を抜き取ります。

「危のうござる」

「やったぞ!海道一の弓取りと恐れられた徳川殿から、刀を奪いとる大手柄じゃ!わははぁ~」

刀は武士にとって最後の守りであり、また誇りでもあり、軽々に他人が触ってよいものではありません。


いくら何でも無礼が過ぎる……さすがに怒りを隠せない徳川家臣たちに、これまた酔っ払った松田憲秀が笑って言います。

「よいではござらぬか。そなたらはもはや北条の家臣なれば、主君の戯れに怒るなど無礼であるぞ」

「……」

やがて宴も御開きとなり、この日のもてなしは「実に善美をつくした」ものだったそうです。

■終わりに

「……もう、北条は先がないな」

その後、家康は駿府に帰ると本多正信に愚痴りました。

「ま、そうでしょうな」

あえて格下に見せることで、相手の本性を見抜いた神の君。上から下まで醜態をさらしていた北条家は、果たして天正18年(1590年)に攻め滅ぼされることになります。

(※娘のおふうは北条の滅亡後、氏直と離縁して徳川家臣の池田輝政と再婚)

相手が下手に出ている時ほど、自分の器量を見定められている。そんな教訓を感じるエピソードでした。

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ