まさに縁の下の力持ちと言っても過言ではない秀長ですが、どのような人物だったのか詳しく知らない方もいるのではないでしょうか。
そこで今回は秀長を代表とする功績やエピソードから、秀長の人柄をご紹介いたします。
豊臣秀長/Wikipediaより
■武士になろうとは思っていなかった

豊臣秀吉/Wikipediaより
秀長は天文9年(1540)に生まれます。異父兄に秀吉がいますが、幼少期に秀吉が家出をしたため、面識がありませんでした。
2人が再度出会うことになるのは、永禄4年(1561)に秀吉とお寧(北政所)が結婚した頃。この時に秀吉から家来になるよう誘われていますが、秀長自身は農業に精を出す生活に満足しており、一度断りました。
また、この時の秀長の夢は村年寄りだったようです。それでも秀長を欲した秀吉は説得し、秀長も武士の道を歩むことを決めました。
■藤堂高虎から慕われた

藤堂高虎/Wikipediaより
藤堂高虎は7回主君を変えたことで有名な武将です。
主家の滅亡で仕方なく主君を変えたこともありますが、徳川家康の次に長く仕えたのは秀長でした。
高虎は天正4年(1576)頃から300石で秀長に士官。そして、三木合戦や賤ヶ岳の戦い、紀州征伐といった数々の戦いで功績を残し、秀長はそれに応える形で1万7300石を加増しました。
さらには高虎を聚楽第内に家康の屋敷を建築する役目に任命し、重宝していたことがわかります。
温厚な秀長と武功で報いる忠義者・高虎という2人の相性は非常に良かったのか、高虎は秀長が亡くなる天正19年(1591)までの約15年間仕えました。
秀長死後は秀長の養子・秀保に仕官。その秀保が文禄4年(1595)に亡くなり、秀長の家系が断絶すると出家しました。
高虎の才能を惜しんだ秀吉から説得により還俗しますが、秀長たちの死を悼んで出家したことがうかがえます。
高虎にとって秀長は、自身の才能を上手に引き出し、開花させた恩人だったのかもしれません。
■豊臣政権の調整役として貢献した

千利休/Wikipediaより
秀吉が秀長を信頼していたことを代表する発言として「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、いよいよ申し談ずべし(『大友家文書禄』より)」があげられます。
秀吉がこの言葉を言ったのは天正14年(1586)頃、大友宗麟が島津氏の圧迫に苦しめられた時でした。
ちなみに、意味は「内密なことは宗易(千利休)に、政治的なことは宰相(秀長)に、それぞれ相談せよ」となります。
この発言から、秀吉は秀長に大名たちの統制を任せていたことがわかります。温厚な性格の秀長を頼る大名は多く、秀吉へのとりなしを頼まれていました。

豊臣秀次/Wikipediaより
また、甥の羽柴秀次が小牧・長久手の戦いで失態を犯した際には紀州征伐と四国攻めに従軍させ、秀吉への信頼回復に尽力したことから大名だけではなく、親族にも頼りにされていたことがうかがえます。
■最後に
秀長の死後、利休や秀次といった豊臣政権に関わる人物が秀吉によって命を落としていることから秀長が秀吉のブレーキ役だったことがわかります。
まさに秀長は豊臣政権における潤滑油の役割を担っていたといっても過言ではありません。それを裏付けるように、秀長死後には朝鮮の役の失敗や徳川家康の台頭で豊臣政権が一気に崩れていきました。
また、豊臣政権は秀長のような屋台骨が支えていたことがわかりますね。
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