日本の歴史上、全国規模で流通する通貨を作ったのは、全国統一を果たした豊臣秀吉が初めてだと考えられています。

戦国時代なると、金や銀の採掘技術が急速に進歩し、大判や小判の大量生産が可能になっていました。
秀吉は、金山と銀山の採掘権を独占し、個人的な富の基盤としました。

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天正長大判(文化遺産オンラインより)

秀吉以前にも、武田信玄が金貨を製造していましたが、それらは甲州地域内でのみ使用されるものでした。直径が天地156ミリ、重さが165グラムもある「天正大判」は、世界最大級の金貨です。金工師の後藤徳乗に命じて製造させたと伝わっています。

そのような天正大判でしたが、その巨大さから実用的ではなく、一般の経済取引には不向きでした。恩賞用の通貨として造られたと考えられています。

初めは恩賞用として作られた!? 日本で初めての全国通貨「天正大判」とは


初めての統一通貨を造った豊臣秀吉 狩野光信画 京都・高台寺蔵

天正大判に加えて、秀吉は「天正通宝」や「永楽通宝」といった金銭や、4~5グラムの重さを持つ「太閤円歩金」なども製造しました。これらの通貨はすべて恩賞用でしたが、秀吉は貨幣経済の発展を推進する一環としてこれらを制作しました。

秀吉は「太閤の金配り」として知られ、喜ばしい出来事があるたびに臣下に金や銀を惜しげもなく分け与えました。

彼は経済感覚に優れた政治家でもあり、たとえば、天正時代に近畿地方で飢饉が発生し、経済が停滞すると、鴨川や桂川の堤防の普請を急遽行い、貧民に仕事を提供し、賃金を支払うことで救済しようとしました。公共工事が景気刺激策として機能する仕組みを理解していました。

この天正大判は、秀吉の奢侈好みの象徴ではなく、むしろ貨幣経済への第一歩と見なすべきものです。


初めは恩賞用として作られた!? 日本で初めての全国通貨「天正大判」とは


天正菱大判(文化遺産オンラインより)

秀吉を継いで日本を支配した徳川家康も、秀吉のアプローチを受け継ぎ、すぐに慶長大判や小判といった通貨を発行し、支払い通貨として広く流通させました。

こうして、秀吉の経済政策はその後の日本の通貨制度に影響を与え、経済の発展に影響を与えたのです。

参考
「天正大判」文化遺産オンライン
瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』1999 東京堂出版

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