平安文学における最高傑作の一つ『源氏物語』。主人公の光源氏(光る君)こと源光(みなもとの ひかる)が亡き母の面影を追い求め、様々な女性たちと恋愛ドラマを繰り広げました。


物語世界の内外で数々の女性たちを魅了してやまない光源氏のモデルについては、古くから様々な説があります。

言うまでもなく、あれだけドラマチックな生涯をたどった光源氏ですから、モデルが一人だけということはないでしょう。

今回は端麗な容姿から「光る少将」と呼ばれた藤原重家(ふじわらの しげいえ)を紹介。果たして彼がどんな生涯をたどったのか、調べてみようと思います。

■村上天皇の孫として、順風満帆な政界デビュー

光源氏のモデル?「光る少将」と呼ばれたエリート美男子・藤原重...の画像はこちら >>


何不自由なく、順調に出世していた藤原重家(イメージ)

藤原重家は貞元2年(977年)、藤原顕光の長男として生まれました。

藤原顕光は左大臣を勤め、母親の盛子内親王は村上天皇の皇女。重家は天皇陛下の孫に当たります。

成長した重家は一条天皇にお仕えし、正暦6年(995年)に左近衛少将となったのを皮切りに、着々と昇進して行きました。

【藤原重家の官歴】

正暦6年(995年)…左近衛少将(19歳)

※天皇陛下や皇族の護衛。

長徳2年(996年)…近江権介を兼任(20歳)

※近江国(現:滋賀県)の国司次官

長徳5年(999年)…五位蔵人(23歳)

※天皇陛下の側近。通常は六位の者が務めた。

長保2年(1000年)…美作守(24歳)

※美作国(岡山県北東部)の国司長官

まさにやんごとなきエリートならではのスピード出世。
実にイージーモードだったのではないでしょうか。

しかし事件は重家が25歳となった長保3年(1001年)2月3日に起こりました。と言うより自分で起こしています。

いったい何をやらかしてしまうのでしょうか。



■何もかも投げ出して、親友と共に突然の出家

光源氏のモデル?「光る少将」と呼ばれたエリート美男子・藤原重家の生涯をたどる【大河ドラマ・光る君へ】


もう俗世には戻れない(イメージ)

「本当に、よろしいのですかな?」

「「……はい!」」

重家は2月3日の夜、親友であった源成信と共に三井寺(園城寺)を訪れ、そのまま出家してしまったのです。

源成信はその美貌と明朗闊達な性格から「照る中将(右近衛権中将)」と呼ばれました。

重家の爽やかに光るような美しさに比べ、成信は周囲を照らし出すような美しさで一世を風靡。二人はまるで月と太陽のような関係だったのでしょう。

官職と言い、重家との親密さと言い、もしかしたら源成信は『源氏物語』に登場する頭中将(とうのちゅうじょう。光源氏の親友・親戚・ライバル)のモデルだったのかも知れません。

さて、そんな二人がいきなり出家してしまったものですから、当然周囲は大騒ぎ。

何とか引き戻したいところですが、当時の出家は後世と異なり簡単には(と言うより、基本的には)還俗できません。


かの『源氏物語』でも、出家した女性はあの光源氏でさえ手が出せなくなってしまうほど、俗世と隔絶されてしまうのです。

顕光そして成信を猶子としていた藤原道長も息子たちの奪還を諦め、二人を見送るよりありませんでした。

■終わりに

光源氏のモデル?「光る少将」と呼ばれたエリート美男子・藤原重家の生涯をたどる【大河ドラマ・光る君へ】


息子の出家を嘆き悲しむ藤原顕光(イメージ)

その後、藤原重家がどうなったのか、いつ亡くなったのか等について詳しいことは分かりません。

また、二人が出家を決意した動機についても明かされておらず、様々な憶測を呼びました。

『今鏡』などによると自らの非才に前途を悲観したためとされていますが、この説には矛盾があり、やはり伝承の一つに過ぎないようです。

なお源成信については万寿4年(1027年)に道長が薨去したさい葬儀に参加しており、その後も長久年間(1040~1044年)ごろまで生きていたとか。

果たして2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」に、この二人は登場するのでしょうか。今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日新書、2007年4月

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