今回は戦国時代、徳川家康に仕えた大久保忠行(おおくぼ ただゆき)のエピソードを紹介。
■戦うばかりが武士じゃない。藤五郎の意外な才能
大久保忠行は生年不詳、宇津忠茂の五男として生まれました。
通称は藤五郎、兄弟には大久保忠員がおり、その子である大久保忠世らから見て叔父に当たります。
小姓として家康に仕えた藤五郎(イメージ)
そんな藤五郎は家康の小姓として仕えましたが、三河一向一揆(永禄6~7・1563~1564年)において負傷。以来歩行がままならなくなり、地元に引きこもってしまいました。
失意に沈む藤五郎でしたが、彼はお菓子づくりが得意だったらしく、餅を作って家康に献上します。
「美味い!」
大変好評を得た藤五郎の餅は、いつしか「駿河餅」とも「三河餅」とも呼ばれ、やがて家康がどこへ行くにも用意させるほどでした。
用心深さのあまり、誰からも食べ物を受け取らない家康が喜んで受け取ったのですから、よほど美味しかったのでしょうね。
後に藤五郎は家康の関東国替えに際して江戸城下の上水工事を命じられます。武勇を奮うばかりが武士の奉公ではないのです。
藤五郎は小石川上水の開発に成功、その手柄によって家康から主水(もんど)の名乗りを許されました。
主+水でなぜ「主水(もんど)」と読むの?天皇陛下の飲料水を管理する役職に由来するその語源

しかし藤五郎は答えて言います。
「有り難き仕合わせにございます。されど水が濁るのはよからぬ故、それがしの名乗りは『もんと』をお許し下され」
なるほど、もん「ど」と濁っては縁起が悪い。だからもん「と」と名乗らせて欲しい。実に三河武士らしい偏屈ぶりです。
これを聞いて家康は呵呵大笑、いらい藤五郎は大久保主水(もんと)忠行と称したのでした。
■終わりに

さぁさ召しませ、駿河餅(イメージ。実際のレシピは調査中)
……又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは。その祖大久保藤五郎忠行は左衛門五郎忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり。一向乱のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば。己が在所に引籠りてありしが。その後も藤五郎は家康・徳川秀忠の二代に仕え、元和3年(1617年)7月6日に世を去りました。もとより菓子作る事を好み折々己が製せし餅をたてまつりけるが。御口にかなひしとて毎度もとめ給ひしが。これもこたび御供に従ひ新知三百石たまひ。そが餅を駿河餅といひて時世うつりて後は。いとめづらかなるものとせり。これより後そが家世々この職奉る事とはなりしなり。(家譜。武家厳秘録。御用達町人来由。)……
※『東照宮御実紀附録』巻六「大久保主水(菓子御用達)」
武勇ばかりが武士ではない。どんな苦難にも言い訳することなく、自分のできる最善を尽くした藤五郎のエピソードは、現代の私たちにも勇気を与えてくれるようですね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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