その一揆の名は梅北一揆。
島津歳久の家来・梅北国兼(うめきた-くにかね)が首謀した一揆ですが、あまり詳しく知らない方も多いはずです。
そこで今回は、梅北一揆の概要とその後と首謀者の梅北国兼についてご紹介します。
■首謀者・梅北国兼について
梅北国兼の主君・島津貴久/Wikipediaより
梅北国兼は、島津氏と勢力争いを繰り広げた肝付氏の一族・梅北氏の出身で、戦国時代には島津氏の家臣となっています。
いつ頃に島津氏に従ったかは不明ですが、天文23年(1554)の岩剣城の戦いに始まる大隈合戦に参加していたことから、その頃より前に仕えていたことがわかります。
弘治3年(1557)に収束したこの合戦で多大なる戦果を残した国兼は、大隅帖佐郷山田(現在の鹿児島県姶良市)の地頭に命じられました。
その後も、天正6年(1578)に大友宗麟との間で起きた耳川の戦いにおいて、勝利に貢献。その結果、天正8年(1580)に薩摩国湯之尾(現:鹿児島県伊佐市)の地頭に任命されました。
そして、天正14年(1586)には、水軍を率いて大友氏と戦いました。
■梅北一揆の概要

加藤清正/Wikipediaより
梅北一揆は、文禄元年(1592)6月15日、国兼が出陣するための船を肥後葦北郡佐敷(さしき)で待っていたことが発端で起こりました。
この時、佐敷城の城代の加藤重次(加藤清正の家臣)は朝鮮半島に出陣していたこともあり、手数となった佐敷城を奪取。
国兼は、義兄弟の田尻但馬(たじり-たじま)や島津氏の家臣である東郷甚右衛門、新納旅庵(にいろ-りょあん)などの武将たちと農民や町民を味方につけ、約2000人の軍勢を率いました。
そして16日、田尻但馬に小西行長が治める麦島城の攻略を命じ、自身は新たな味方を募りました。
しかし、共闘を約束した武将たちは一揆鎮圧側に回ると共に、佐敷城留守居の策略によって、17日に国兼が討ち取られたことで一揆が鎮圧します。
ちなみに、その策略とは女性たちに陣中見舞いと称してお酒を持たせ、酔った隙をついたというものです。
こうして、梅北一揆は3日で収束しました。しかし、近年の研究で一揆は15日間に及んだとする説も出てきています。
■一揆後の影響

島津義弘/Wikipediaより
梅北一揆鎮圧後、国兼の首は肥前名護屋城に届けられ、胴体は佐敷五本松に埋められました。
国兼の妻も名護屋城に連行され、生きたまま火あぶりに処されました。梅北夫妻の他に一揆に参加した者たちも磔刑に処されています。
一揆の影響は主家の島津氏にも及び、国兼を家来としていた島津歳久が一揆の黒幕として追討対象となり、討ち取られました。
また、文禄の役出陣が大幅に遅れ、島津義弘が「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態に繋がりました。
この遅陣は豊臣政権の不信を招いてしまい、細川忠興と浅野長政が徹底した検地を実施する事態になってしまうほどです。
しかし、この検地によって権力強化に繋がり、慶長の役で挙げた功績で名誉を回復する結果となりました。
■神になった梅北国兼
秀吉から悪逆人と名指しされた国兼でしたが、地頭を務めていた大隅帖佐郷山田では神として祀られました。
また、国兼の妻は死に瀕しても取り乱さなかったことからルイス・フロイスから称賛されました。
■一揆の目的は朝鮮出兵への反発?豊臣政権への反発?

小西行長/Wikipediaより
梅北一揆の目的は朝鮮出兵への抵抗から起こしたと言われていますが、国兼が襲った地は加藤清正や小西行長といった秀吉家臣の領地のみです。
そのことから考えると、国兼の目的は朝鮮出兵の反発と違ったものなのかもしれません。
また、このような大規模な一揆を島津歳久の家来に率いられるかと思うと不思議に思います。国兼の後ろにもっと大きな力が働いていたかもしれませんが、真相は闇の中です。
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