■「世界三大大火」のひとつ・明暦の大火
江戸時代には、歴史に残る「三大大火」と呼ばれるものが発生しています。
まずは、おそらく江戸時代の大火で最も有名な、明暦3年1月18日に発生した「明暦の大火」です。
明暦の大火供養塔(Wikipediaより)
この大火の別名は「振袖火事」。これは同じ振袖を着ていた三人の女性が立て続けに病死し、その振袖を本郷の寺で焼こうとしたところ風で舞い上がり、寺に燃え移ったのがそもそもの火災の原因だったからです。
それに加えて、小石川と麹町でも火災が発生し、この三つが重なったことで大火災へと発展したのでした。
この大火を受けて、江戸幕府は「定火消」という消防組織を設置し、延焼を防ぐための空き地である「火除地」や「火除土手」を各地に造らせました。また道の幅を広くして町の各所に防火用水を設置するなどしています。
ちなみに明暦の大火は、「世界三大大火」のひとつとされていますが、残りの二つのうちひとつは、1666年に起きたイギリスで発生し1万3千人戸の住宅を焼き尽くした「ロンドン大火」です。
またもうひとつは、西暦64年にイタリア・ローマのスラム街で発生して、町の半分以上を焼いた「ローマ大火」です。
■「目黒行人坂大火」と「丙寅の大火」
江戸時代の三大大火のふたつめは、明和9年2月29日に発生した「目黒行人坂大火」です。現在の目黒区下目黒1丁目付近にあたる目黒行人坂の大円寺という寺から出火し、麻布から江戸城周辺までの武家屋敷を焼き尽くしました。
原因は寺のお坊さんによる放火で、火災は神田・千住方面にまで拡大し約1万5千人の死者を出しています。
このお坊さんは、『鬼平犯科帳』で名を知られる火付盗賊改役・長谷川平蔵によって捕らえられて、火あぶりの刑となりました。
長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡モニュメント
そして、最後は文化3年・丙寅の年の3月4日に発生した「丙寅の大火」です。これは現在の港区高輪二丁目付近にあたる芝・車町の材木屋付近から出火しました。
炎は折からの激しい南風によって煽られて一気に燃え広がり、京橋・日本橋の大半を焼き尽くしました。そして神田・浅草までも拡大し、最終的には下町530町が焼け野原になっています。
この、丙寅の火災による死者は1,200人に上りました。これを受けて、幕府は焼け出された人たちのために御救小屋(おすくいごや)と呼ばれる施設を建てています。
これは、現代でも災害発生時に設置される仮設住宅のはしりと言えるかも知れません。
■「大火」は過去のものではない
死者が千人から一万人以上という大火は、いくら火災が多い江戸時代でもかなり珍しいものです。
しかも今は、昔よりも防災体制がしっかりしているので、この「三大大火」のような火災はかなり起きにくくなっていると言えるでしょう。
しかし、明治時代以降も、決して「大火」と呼ばれるような火災が根絶されたわけではありません。
大正時代には、言うまでもなく関東大震災によって東京と横浜で大火災が発生して大勢が亡くなっています。
またその後も、昭和9年3月21日には北海道函館市で大火災が発生しており400万平方メートル余りが焼失。
昭和24年に発生した秋田県能代市「能代大火」の焼け跡(Wikipediaより)
さらに戦後も魚津大火や能代大火が起きていますし、そして比較的最近の昭和51年にも酒田市で、また平成28年には糸魚川市で、それぞれ大火が起き多くの家屋が被害を受けました。
火災の歴史は、はからずも「大火災はいつでもどこでも起こりうる」という教訓を私たちに示していると言えるでしょう。
江戸時代には、歴史に残る「三大大火」と呼ばれるものが発生しています。
まずは、おそらく江戸時代の大火で最も有名な、明暦3年1月18日に発生した「明暦の大火」です。
現在の文京区本郷にあたる本郷五丁目の寺から出火し、二日間燃え続けて江戸の町の大半を焼き尽くし、10万人以上の死者を出したと言われています。
明暦の大火供養塔(Wikipediaより)
この大火の別名は「振袖火事」。これは同じ振袖を着ていた三人の女性が立て続けに病死し、その振袖を本郷の寺で焼こうとしたところ風で舞い上がり、寺に燃え移ったのがそもそもの火災の原因だったからです。
それに加えて、小石川と麹町でも火災が発生し、この三つが重なったことで大火災へと発展したのでした。
この大火を受けて、江戸幕府は「定火消」という消防組織を設置し、延焼を防ぐための空き地である「火除地」や「火除土手」を各地に造らせました。また道の幅を広くして町の各所に防火用水を設置するなどしています。
ちなみに明暦の大火は、「世界三大大火」のひとつとされていますが、残りの二つのうちひとつは、1666年に起きたイギリスで発生し1万3千人戸の住宅を焼き尽くした「ロンドン大火」です。
またもうひとつは、西暦64年にイタリア・ローマのスラム街で発生して、町の半分以上を焼いた「ローマ大火」です。
■「目黒行人坂大火」と「丙寅の大火」
江戸時代の三大大火のふたつめは、明和9年2月29日に発生した「目黒行人坂大火」です。現在の目黒区下目黒1丁目付近にあたる目黒行人坂の大円寺という寺から出火し、麻布から江戸城周辺までの武家屋敷を焼き尽くしました。
原因は寺のお坊さんによる放火で、火災は神田・千住方面にまで拡大し約1万5千人の死者を出しています。
このお坊さんは、『鬼平犯科帳』で名を知られる火付盗賊改役・長谷川平蔵によって捕らえられて、火あぶりの刑となりました。

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡モニュメント
そして、最後は文化3年・丙寅の年の3月4日に発生した「丙寅の大火」です。これは現在の港区高輪二丁目付近にあたる芝・車町の材木屋付近から出火しました。
炎は折からの激しい南風によって煽られて一気に燃え広がり、京橋・日本橋の大半を焼き尽くしました。そして神田・浅草までも拡大し、最終的には下町530町が焼け野原になっています。
この、丙寅の火災による死者は1,200人に上りました。これを受けて、幕府は焼け出された人たちのために御救小屋(おすくいごや)と呼ばれる施設を建てています。
これは、現代でも災害発生時に設置される仮設住宅のはしりと言えるかも知れません。
■「大火」は過去のものではない
死者が千人から一万人以上という大火は、いくら火災が多い江戸時代でもかなり珍しいものです。
しかも今は、昔よりも防災体制がしっかりしているので、この「三大大火」のような火災はかなり起きにくくなっていると言えるでしょう。
しかし、明治時代以降も、決して「大火」と呼ばれるような火災が根絶されたわけではありません。
大正時代には、言うまでもなく関東大震災によって東京と横浜で大火災が発生して大勢が亡くなっています。
またその後も、昭和9年3月21日には北海道函館市で大火災が発生しており400万平方メートル余りが焼失。
死者2,000人以上、焼失戸数2万戸という被害が出ています。

昭和24年に発生した秋田県能代市「能代大火」の焼け跡(Wikipediaより)
さらに戦後も魚津大火や能代大火が起きていますし、そして比較的最近の昭和51年にも酒田市で、また平成28年には糸魚川市で、それぞれ大火が起き多くの家屋が被害を受けました。
火災の歴史は、はからずも「大火災はいつでもどこでも起こりうる」という教訓を私たちに示していると言えるでしょう。
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