江戸時代後期の文化年間(1804~1818)から幕末に至るまで、神田で古本商を営んでいた人物に、須藤由蔵(すどうよしぞう)という人物がいます。上州(現在の群馬県)藤岡の出身だったことから、屋号を藤岡屋としていました。


噂話、ゴシップ……「卑近で微細な情報は金になる!」に気がつい...の画像はこちら >>


画本東都遊 3巻(国立国会図書館より)

本屋の由蔵の略で「本由」とも呼ばれています。古本屋といっても、御成道(現在の秋葉原周辺)の足袋屋・中川屋の軒下を借りて、路上に露天の筵の上に古本を並べただけの簡素な店だったそうですが、あまり繁盛せず、「御成道の達磨」とあだ名されていたようです。

一方でこの男、江戸市中の事件や噂、落書などの記録に精を出し、それらの情報を諸藩の記録方や留守居役に提供して、閲覧料で生計を立てていたようです。彼が書きつけていたのは、人の口から口へと伝わる噂話の類で、あてにならないゴシップから、重要な情報まで、その内容は玉石混交、ところが、物珍しさも手伝って、由蔵のことは人々に知られるようになっていったそうです。

やがて、彼の情報を求めて、人々がやってくるようになりました。

由蔵は、出されたお布令などの情報も、いちいち書き留めていたようですが、需要があったのは、そういう公式な情報より、口伝えにもたらされる卑近で微細な情報でした。その中には、時代を反映するようなことや、商売に絡んだようなものが含まれていたためです。

形のある古本よりも、流れてくる風聞の方がお金になることを知った由蔵は、足が速くて気はしの回る者を雇ったりするなどして、事件が起こるといち早く様子を見にやらせ、起こったことや、人の話を詳しく聞き取らせるようになっていきました。



由蔵の名前は、ますます広まり、いつしか「古本屋」から、新しい風聞を売るもの、すなわち「新聞屋」となっていきました。そのうちに、自分が集めるだけではなく、情報を売りに来る者たちも現れ始めました。由蔵は、それらの信憑性を一つひとつ確かめ、情報としての価値を吟味して買い取っていったそうです。

情報は買った金額の三倍の値段で売ったというから、なかなかのやり手です。
人を雇って情報を集めるようになっても、自身でその情報を書き記すことをやめなかったそうです。集まってくる情報には、かなり信憑性があり、藤岡屋の新聞は信頼できると、評判でした。

彼が60年近く記し続けた諸情報は、『藤岡屋日記』といい、独身だった彼は、晩年、一切を世話になった中川屋に無償で譲渡し、江戸を離れ、甥をたよりに、故郷の藤岡に帰ったそうです。1870(明治3)年のことでした。

その後、間もなく亡くなったと伝わっています。中川屋に残されていた日記は、その後、東京帝国大学の教授が買い取って、後年、『藤岡屋日記』(全150巻152冊)として刊行されましたが、惜しいことに、原本は関東大震災で焼失してしまいました。

日本最初の日本語の日刊新聞は京浜地区で1870年(明治3)年に創刊された、横浜毎日新聞だとされていますが、江戸時代の瓦版なども含め、明治以前の日本には、既に情報を収集して、編集して、販売する情報屋のはしりともいえる商売が存在していたことがわかります。

参考

鈴木 棠三、小池 章太郎 編「藤岡屋日記」『近世庶民生活史料』(1987 三一書房)

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