江戸時代は、基本的に天皇家は政治の表舞台から引っ込んでいましたが、幕末期になって政局を左右する存在として目立つようになったのが孝明天皇です。
孝明天皇宸影(Wikipediaより)
この、いわば幕末期のキーマンといえる孝明天皇の死因については、病死だったのか暗殺だったのか、研究者の間でもさまざまな見解があります。
■「攘夷+公武合体」の政治思想
まずは当時の状況からおさらいします。
幕末期は、欧米列強の進出によって幕府の権威が揺らいだ時期ですが、当時、尊王思想に影響された武士らは天皇の権威をバックにして状況を打破することを考えていました。この時の天皇が孝明天皇です。
もともと彼は開国政策に対して懐疑的であり、外国人は追い払うべき(攘夷)だと考えていました。
開国を推し進めた井伊直弼とも対立関係にあったとよく言われています。実際には、むしろ幕府と手を組んで関係強化をはかりながら難局を乗り切る公武合体政策を推していたのですが、ともあれ尊王攘夷派の志士たちにとっては頼もしい存在だったと言えるでしょう。

井伊直弼銅像
さまざまなゴタゴタはあったものの、孝明天皇のもとで幕府と朝廷は結束を強くしていきました。
そんな中で、彼は急死します。公式には天然痘が原因だとされていますが、その最期の様子には不審な点が多々見受けられます。
■全身から出血する最期
孝明天皇の最期の様子については、宮内庁編纂の『孝明天皇紀』を始めとする詳細な記録が残っています。
定説では、彼に天然痘をうつしたのは、宮中で奉仕していた児童丸という子供だったとされています。
天皇が発症したのは12月11日のことでした。宮中内侍所で神楽を観覧している際に気分が悪くなり、翌日には高熱を発しています。
最初、御典医は「風邪」と診断しましたが、14日には顔や手に発疹があらわれ、診断は「痘瘡あるいは赤痢」に改められました。
そして15から16日にかけて全身に発疹が出て、これによって正式に「痘瘡」つまり天然痘だと断定されました。
19日には食欲が出て安眠できるようになり、快方に向かったとされていますが、しかしその後24日になって病状が急変。再び発熱して「えずき」がひどくなり、夜中から翌朝にかけて吐き気を止める薬を服用します。
そして翌日の25日には痰がひどくなり、脈も弱まって身体が冷えていきました。死の直前には体に紫の斑点が見られ、全身の「九穴」すなわち体の穴という穴から血を噴いて亡くなったというから悲惨すぎます。
【後編】では、さらに具体的な孝明天皇の病床記録と、当時から噂されていた「岩倉具視犯人説」について検証します。
【後編】の記事はこちらから
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan