一方、近代になると、「山登り」にレジャーやスポーツの価値を見出し、一般的の人々に、登山の楽しさ・素晴らしさを普及した人がいました。
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高頭仁兵衛は、1877(明治十)年、新潟県長岡市深沢町(三島郡深沢村五十九番戸)の豪農の家に生まれました。幼名を「式太郎(しょくたろう)」といいます。江戸時代から高頭家の当主は、代々「仁兵衛」と名乗っていました。

高頭仁兵衛(『越後の旦那様 高頭仁兵衛小伝』より)
元々は、学究肌の家系で、当時新潟県内で貴族院議員の互選資格を持つ15人中の1人であった祖父から、幼少時から儒学や仏教といった学問を学び、多芸多種であった祖母からは、茶道や礼法・漢文・漢詩・俳句・和歌・謡曲を習得しました。
深沢小学校、片貝高等小学校などを経て、二松学舎に学ぶかたわら、皇典講習所で国学、漢学などを学ぶ一方、文学書を好み、伝記や物語、講談なども乱読していたそうです。
生来虚弱な体質でしたが、塙保己一の伝記を読んだことから、学校までの12キロの距離を徒歩で往復し、健康を取り戻しました。
高等小学校では、苗場山の開拓者で清津峡の名付け親としても知られる大平晟(おおだいらあきら)と出会い、師事します。13歳で弥彦山を登り、県境に連なる山岳の景観に感動して、登山の趣味を体得しました。
16歳の秋、趣味の花火製造中に誤って右手と両目を負傷、これが人生に大きく影響することになります。
1896(明治二十九)年春、実父の死去に伴い、九代目仁兵衛を継承、「義明」と名乗って、本名を式(しょく)、号を「海峰」と称しました。
1900(明治三十三)年5月には、徴兵検査も受けますが、身長不足で不合格になってしまいます。8月に富士山、苗場山に登山したことをきっかけに、仁兵衛による全国の山岳踏査が始まります。
越後一の豪農といわれた市島家から、二女のレイ子を妻として迎えるのも、この年の11月のことでした。
次回、【その2】はこちら
山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その2】

参考
- 藤島玄「日本山岳会の先覚者」『越佐が生んだ日本的人物』第1集(1965 新潟日報社)
- 日本山岳会『越後の旦那様 高頭仁兵衛小伝』(1970 野島出版)
- 森谷周野「高頭仁兵衛」『新潟県人物群像』5(1986 新潟日報事業社出版部)
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