以降の時代でも、度々行われていたようです。西洋においても、馬の競争は古代ローマから盛んでしたが、現在の娯楽としての競馬はイギリス発祥のものです。
「賀茂競馬図屏風」 所蔵:馬の博物館
1861(文久元)年には、イギリス人を中心とする在留外国人によって、横浜の山下町で競馬が開かれたとされていますが、これは幕府の馬術練習用の馬場を使ったもので、集まった外国人も軍事関係者ばかり。
日本で始められた娯楽としての西洋式の競馬は、その翌年の5月1日・2日の両日、同じく居留外国人によって開かれたものだとされています。
この年には、外国人のみを会員とする横浜レースクラブが結成され、また「競馬場も設置すべき」という声により、1866(慶応2)年には、横浜の根岸に、競馬場が造られました。これが近代日本における競馬場の第1号、根岸競馬場です。
イギリス駐屯軍将校らが設計・監督に携わりました。
この競馬に日本人が加わるのは、1875(明治8)年のこと。横浜レースクラブがこの年に日本人の加入を認め、同クラブの名誉会員には宮家が、正会員には西郷従道・松方正義・伊藤博文といった明治新政府の重鎮が名を連ねました。
特に西郷は、単に会員になっただけではなく、日本人で初めての馬主にもなりました。さらに同年11月4日に根岸競馬場で開催されたレースに出場し、見事勝利をおさめました。
馬の名前は「ミカン号」といい、当時、日本の政治や社会を精査した風刺漫画雑誌「ジャパン・パンチ」の風刺画には、愛馬にまたがる西郷の顔が、ミカンに見立てて描かれています。
西郷従道
『ジャパン・パンチ』 1875年11月号 所蔵:馬の博物館
西郷従道については、これらの記事もご参照ください。:
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横浜レースクラブは、1880(明治13)年に日本レースクラブと改称し、毎年、春秋2回の根岸競馬を開催しました。
1884(明治17)年には、共同競馬会社が、上野の不忍池の周辺に長さ1700メートル・幅18メートルの競馬場を作りました。こうして、同年10月24日、皇族をはじめ会員を招いての競馬会をスタートさせたのです。明治天皇も、教育や軍馬の改革などに役立つとして競馬を奨励しました。
1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会では、特別に天皇もご覧になった臨時競馬大会が催されました。これが、天皇賞の始まりとされています。
参考
- 宇治谷 孟 『続日本紀(上) (中)(下) 全現代語訳』 (1992 講談社学術文庫)
- 「横浜と馬、競馬の歴史」『根岸競馬場開設150周年・馬事文化財団創立40周年記念サイト』
- 『馬の博物館』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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