よく親の七光りとして広まっておりますが、戦国時代には妹や妻の力を借りて出世した武将がいたことはご存知でしょうか。
落ちてしまった地位を女性の光を使って取り戻したことをからかわれて「蛍大名」と呼ばれていました。
今回はそんな高次の転落から出世までの軌跡をご紹介します。
京極高次/Wikipediaより
■浅井長政とは叔父と甥の関係だった

浅井長政/Wikipediaより
京極家は室町幕府の軍事召集と京都の警察をつかさどる侍所の長官を務める四職の一家でした。
また、出雲・隠岐・飛騨・近江の守護も兼任していましたが、応仁の乱時に起きた家督争いである京極騒乱によって衰退。家臣であった浅井家に唯一残った北近江を乗っ取られてしまいます。
永禄3年(1560)に高次の父・京極高吉は六角家と手を組んで浅井長政と戦いますが、負けてしまったことで北近江の支配権を完全に奪われてしまいます。
また、高吉は長政の姉・京極マリアと婚姻し、永禄6年(1563)に高次が誕生しました。
この時の京極家は室町幕府将軍の近臣として仕えていましたが、足利義昭が織田信長と対立すると、信長とは一戦交えないことを証明するために高次を人質に出しました。
■情勢が読めず、負けた側に付いた

柴田勝家と明智光秀/Wikipediaより
そのまま信長の家臣となった高次は近江国に5000石の領地を与えられました。
順調にいけば織田の家臣として終えるはずが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こります。
弔い合戦として起こった山崎の戦いで高次は、妹・竜子の嫁ぎ先だった武田元明(若狭国の守護大名)が光秀に味方したため、明智方につきました。
戦いの結果は明智方の惨敗で、高次は追われる身となってしまいます。
この時に頼ったのが、お市の方の再婚先だった柴田勝家。しかし、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いを機に起きた北ノ庄城の戦いで勝家が自害すると、高次は遂に路頭に迷ってしまうことになります。
■妹のおかげで近江の大名に

京極竜子/Wikipediaより
光秀や勝家が滅ぼされ、頼る先を失った高次でしたが、天正12年(1584)に転機が訪れます。それは妹の竜子が豊臣秀吉の側室となったことでした。
竜子の嘆願のおかげで、高次は近江国高島郡2500石を与えられました。また、九州征伐の功績により1万石を与えられ大名に返り咲きます。
天正15年(1587)には長政の娘で従兄弟だった初を正室に迎えると共に、文禄4年(1595)に加増と近江の大津城の城主に命じられました。
高次は領地を失った京極家を一代で近江国(現在の滋賀県)の大名まで飛躍させました。
■迷った末に選んだ関ヶ原の戦い

徳川家康/Wikipediaより
秀吉が没した後、徳川家康と石田三成の対立が表面化します。そして、上杉征伐が始まると高次は弟の高知を家康に同行させます。
しかし、西軍からも勧誘が来てしまい、迷った末に嫡男を人質に出して西軍に味方しました。
高次は西軍と共に出陣しますが、海路を経て大津城に戻った後、東軍の井伊直政に西軍を裏切り大津城で足止めすることを伝えます。
高次の行動を知った西軍は毛利輝元の叔父・毛利元康と立花宗茂に大津城の攻略を命じます。

立花宗茂/Wikipediaより
9月7日に始まった大津城の戦いは1万5000人(4万人に増したと言われている)の西軍に対し、3000人の兵で耐え忍ぶも大砲と総攻撃を受け、14日に降伏。
15日に開城し、剃髪した高次は高野山に送られるもその日に関ヶ原本戦で三成率いる西軍が敗北しました。
戦後、西軍を引き留めた高次の功績を家康は高く評価しました。
下山した後に高次は若狭国(現在の福井県南部)8万5000石の加増と転封を命じられ、国持大名となりました。
そして、慶長14年(1609年)47歳で病没。跡は長男の忠高が継ぎました。
参考:火坂雅志『戦国を生きた姫君たち』2016年、KADOKAWA
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