幕末期のいわゆる江戸城無血開城は、この時代を描く映画やドラマなどでは大変重要なシーンです。無血開城に至るまでの流れはコチラの記事を参考にしてください

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幕末の「江戸城無血開城」はウソ!城は焼け、庶民も被害を被った薩摩による「攻撃」があった


「江戸城無血開城」で有名な西郷隆盛と勝海舟の会談の地の記念碑(Wikipediaより)

もともと、日本の歴史では、敗者はその本拠地を抹消されることがほとんどでした。
例えば徳川家康は、大坂夏の陣で大坂城を全焼させています。

幕末期も、もともと新政府軍は江戸城に総攻撃を加える予定でした。

もしもこれが実現していたら、江戸の町は戦場となります。市街戦によって江戸の庶民が犠牲になり、徳川慶喜も切腹に追い込まれていたかも知れません。

この計画が、実際にどのような経緯を辿ったのかは皆さんもご承知の通りです。江戸幕府の幕臣たちが新政府軍と交渉し、江戸城は無傷のまま明け渡されることになりました。

しかしこれは、あくまでも幕府軍と新政府軍の「全面衝突」が避けられたというだけの話です。実際には、江戸城と城下町は無傷とはいえない状態でした。

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これはどういうことなのか、以下で解説しましょう。



■西郷隆盛によるゲリラ攻撃

「江戸城無血開城」までの経緯で、江戸城と城下町は決して無傷では済みませんでした。どういうことかというと、この直前に江戸の街では、薩摩藩によるゲリラが暗躍していたのです。

この元凶は西郷隆盛です。
大政奉還が行われた直後の1867年11月あたりから、彼は配下に司令を出して江戸の町中で強盗行為を働かせていました。

その理由は、幕府から攻撃させることでで、武力討幕を正当なものにするためでした。つまり幕府に対する挑発行為です。

そもそも薩摩藩は、大政奉還によって肩透かしを食わされた形になっていました。しかし実際には慶喜は大政奉還を行ってもその権威を失っていなかったのです。薩摩藩はもう打つ手がなく、逆に追い詰められた形でした。

そこで、武力討幕を可能にするためにゲリラ攻撃による挑発を行ったのです。

この、江戸の街での強盗・略奪を指揮した人物の一人が相良総三です。彼は江戸の薩摩藩邸に無法者たちを雇い入れ、江戸の町で民間人を襲うよう指示しました。

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相良総三が斬首された地に建つ下諏訪の「相良塚」(Wikipediaより)

この時のターゲットは幕府関係者に限られていました。しかし、実際には幕府とは直接関係のない商家も強盗や放火の被害に遭っています。特に日本橋は被害が大きく、11月14日には両替商が1万5千両を奪われるなどしました。




■火災と暴走

こうして江戸の町の治安は悪化します。決定的な事件となったのは江戸城の火災です。12月23日、江戸城の二の丸御殿のあたりで火災が発生し、二の丸全体が焼け落ちたのでした。

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現在の旧江戸城大手門

さらにこの火災と同日には庄内藩屯所が銃撃されており、幕府は25日から庄内藩に薩摩藩邸を包囲させました。

ちなみに西郷は、もともと朝廷から討幕の密勅を授けられていましたが、大政奉還によってこれがうやむやになると、江戸の町での略奪や放火を中止するように命令を出したのは前述の通りです。

しかし、なぜか薩摩藩の過激派たちはこうした略奪・強盗・放火をやめませんでした。このことから、江戸での略奪行為は手下たちの暴走によるもので、西郷は彼らをコントロールし切れていなかったのではないかと言われています。

こうして見て行くと、江戸城無血開城と言ってもそれは表向きのものだったことが分かります。実際には江戸の庶民たちは無法者たちの犯罪行為に苦しめられていたのであり、無血開城はあくまでも軍による全面衝突は行われなかったという意味に過ぎないことが分かるでしょう。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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