彼女らは樋洗(ひすまし)や須麻志(すまし)女官とよばれ、かけつけると御簾(みす)で周りを取り囲み、主人をその中で用便させました。姫君たちは十二単を着用しているので、非すましたちは着物を持ち上げてあげたりしたそうです。
樋箱は木でできた箱で、引き出し式になっており、そこに砂や灰を敷いて上から用を足したら取り出して捨てるようになっています。なので用が済んだら樋殿(ひどの)とよばれる場所に運んで引き出しの中身を捨てて、洗いました。ちなみにこの頃から、ふき取り用に紙を使用するようになったといいます。

樋箱
関連記事:
木片で尻ぬぐいですと!?超びっくり!な日本のトイレの歴史【前編】

余談ですが、かつてはフランスでも長らく、陶器や椅子型などの様々なおまるを使用しており、やはり姫君たちのおまるは下女が庭に行って捨てたというから、発想は同じですね。
■どの部屋でも排泄していたの?
では辺り構わずどの部屋でも排泄は行っていたのでしょうか。
前述した「御樋殿」「御湯殿」という場所を設け、そこで行っていたようです。
『帥記』承暦四年五月十一日条12 (略)西廊立亘馬形障子、同南渡殿北立亘打毬障子等、以北渡殿為鯉避並御 樋殴(以下略) (『権言己 自巾言己』p34)ここでは「北渡殿を御湯殿並びに御樋殿と為す」という表現があります。北の渡り廊下の先に、「御湯殿」「御樋殿」があると解釈できますね。また『延喜式』宮城図にも、内裏図の中に「御樋殿」があります。このことから寝殿造における「樋殿」は「排泄する場所」と推測できます。
しかし貴族の財力などにより、必ずしも邸宅に樋殿があったわけではないようです。
『雅亮装束抄』16「やすみ所(休所)」に畳を敷いて御簾で囲った空間に、大臣が客である場合には「大壷」を置き、納言や参議が客の場合には「板に穴を開けたもの」を使用する、と書いてあります。
尊者のやすみ所とて、外記・史の座のそばなどびんぎの所一間に、御簾をかけまはして、高麗の畳一帖を敷きて、大臣の尊者のをりはおほ壷を置き、大納言には反に穴をゑるなり、(以下略)(『雅亮装束抄』、和装本)
この屋敷ではもともと用を足す「板の穴」が「便所」として作られており、その穴の下には壷やそれに代わる容器が置かれていたということですね。
中身を捨てるだけではなく、女性もその場所を利用できたのでしょうか?
『源氏物語』(空蝉) によると、老いた女房が下痢をしていたために夜間に「お腹が、お腹が…」と言いながら渡殿を通り過ぎて行った、という箇所があります。
ですので、男性専用であったというわけではないようです。小便はわかりませんが、大便の排泄に関しては、寝殿ではなく、外の庭か離れで行ったものと考えていいのかもしれません。とはいえ着物に匂いは付着するでしょう。そりゃお香を焚き染めるわけです。
■庶民はどうしてた?
庶民たちは樋箱などは使っておらず、掘っ立て小屋で地面に穴を掘っただけの汲み取り式や、道端で用を足すことも。高下駄の登場は、便を踏まない配慮から生まれたという説もあるので、これまたフランスでは窓から直接、壺の中身のし尿をぶちまけていたので紳士の外套が発達したという下の文化と共通していたり。
■厠の登場
垂れ流しに近いのですが、いわば水洗トイレのようなものもありました。貴族の屋敷の敷地内に小川などから水を引き込んだ東屋のようなものを作り、中ではその小川の両端に足を乗せる2枚の板を置きまたがって使用したり、穴をあけた板を渡して使用したそうです。
しかしこれは貴族の姫君たちは利用しなかった様子。まず人前に顔を出すのがはばかられる時代。いくら屋敷内とはいえ下衆(身分の低い使用人)にみられる危険性もあるわけですし、室内では着物を引きずって歩いていたわけですから利用しにくかったと思います。
どうでしたか?最低でも一日3回程度は確実に行う行為。当時の姫君たちは相当、気を使ったことでしょう。
参考:「日本古代の排泄観念と樋洗童に関する一考察」寺田綾、『トイレ:排泄の空間から見る日本の文化と歴史』屎尿・下水研究会
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan