言わずと知れた鳥羽伏見の戦いは、幕末期の新政府軍と旧幕府軍の戦闘の天王山です。
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ところで皆さんは、この鳥羽伏見の戦いについてどのようなイメージを持っているでしょうか?

城州伏見下鳥羽合戦之図 (部分) 月岡芳年 画
多くの人は、おそらくこのような図式で思い描いているのではないでしょうか。
「西欧式の最新兵器を装備した新政府軍VS時代遅れの装備の、旧態依然とした旧幕府軍」。
今回は、このイメージがどれくらい正確なのかを検証していきましょう。

「伏見口の戦い激戦地跡」石碑(京都市伏見区)
鳥羽伏見の戦いは、1868年1月3日に発生しました。舞台となったのは、御所の南にある鳥羽街道のあたり。旧幕府軍はおよそ1万5千人規模だったのに対し、新政府軍は6千人と、倍以上の戦力差がありました。
この戦力差にもかかわらず、ご存じの通り結果は新政府軍の勝利に終わりました。この勝因については、当時から新政府軍の装備がきちんとしていたからだという説があったようです。
なにせ、幕臣までもが「敵は武装がよく、よい銃と砲兵を持っていた」と分析しているのです。
しかしこれは、勝敗の原因の分析としては正確ではありません。なぜなら、鳥羽伏見の戦いにおいては旧幕府軍も最新鋭の装備を備えていたからです。
■兵装だけでも差は明らか
当時の旧幕府軍は、戦国時代さながらに鎧と刀を装備して、新政府軍の最新鋭の装備に無謀に突撃していったようなイメージがあります。
しかし、鳥羽伏見の戦いでは、フランスからの協力を得て整備された陸軍兵士5千人が幕府陸軍にいました。
ちなみにかの新撰組も鳥羽伏見の戦いに参戦しています。しかし彼らも全員が小銃を手にしており、刀を持っている者は一人もいませんでした。禁門の変で近代兵器の前になすすべもなかった彼らも、西洋式の訓練を受けた軍隊へと変貌していたのです。
一方、新政府軍の兵隊は寄せ集めに過ぎませんでした。6千人の兵のうち、実際に戦ったのは1500人程度とも言われています。
また、当時の薩長の主力だった小銃は、当時としても既に時代遅れの感があったミニエー銃でした。

ミニエー銃の一種である1851年型ライフルマスケット(Wikipediaより)
幕府軍もミニエー銃を使ってはいたものの、連射が可能なシャスポー銃も大量に配備されていました。幕府は、薩長が持たないこの最新鋭の銃を、フランスからなんと無償で2千挺も提供されていたのです。
ミニエー銃とシャスポー銃の性能の差は明らかでした。新政府軍のミニエー銃は弾丸を前から装填する、いわゆる先込め式。一方のシャスポー銃は後部から装填でき、連射性も高かったのです。
こうした点だけを見ても、実は質・量の両面で、旧幕府軍は新政府軍を上回っていたことが分かります。
それでは、なぜ新政府軍は圧勝してしまったのでしょうか。鳥羽伏見の戦いの、この最大の謎については【後編】で解説します。
【後編】の記事はコチラ:
逃げ出した指揮官…幕末「鳥羽・伏見の戦い」で圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由【後編】

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
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