幕末期の鳥羽伏見の戦いで、軍の規模や兵器・装備面ではるかに劣っていた新政府軍。それが、なぜか旧幕府軍に勝つことができた大きな理由のひとつとしてよく挙げられるのが「錦の御旗説」です。
いわゆる錦の御旗を所有することは、すなわち天皇の軍隊・官軍であることを意味しています。つまりそれに歯向かえば朝敵・逆賊と見なされるわけです。
鳥羽伏見の戦いでは、大久保利通と岩倉具視が工作活動を行い、朝廷を新政府軍の味方につけました。これにより戦場では錦の御旗が掲げられ、本来なら優勢だったはずの旧幕府軍の士気を削いだといわれています。
戊辰戦争(1868)の際、官軍が用いた錦旗の精密な模写図
これが決定打となり、新政府軍は旧幕府軍を倒したというのが、上述の「錦の御旗説」です。
しかし、錦の御旗が戦闘に与えた影響は、さほど大きくなかったというのが現在の歴史の通説です。
■戦況とは無関係
そもそも鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗が掲げられるよりも先に、旧幕府軍は追い詰められていました。その時点で既に大勢は決していたのです。
実際、錦の御旗が戦場に届いた時点で、旧幕府軍の敗北はほぼ確定していました。その大きな原因は、旧幕府軍の兵隊の士気の低さと、彼らが敵である新政府軍をナメていたことです。
ナメていた旧幕府軍…幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が圧倒的戦力の旧幕府軍に勝利した理由【前編】
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幕府軍は最新鋭の近代兵器を所有しており、兵力も敵の場合以上でした。よって彼らは新政府軍ほどにはやる気がなかったとみられています。
さらに、幕府軍には鳥羽伏見のあたりの土地勘がなかったのも、大きな要因となりました。
幕府軍は装備こそ近代的だったものの、旧態依然としたやり方を好んでいたようで、戦国時代以来の密集戦術を採用していました。
しかし激戦が繰り広げられた鳥羽街道は道幅がとても狭く(現在もそうです)、さらに湿地帯が多いという難点もありました。
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現在の京都市東山区の鳥羽街道駅
広大な平地ならともかく、このような状況では、1万5千人の兵からなる大軍の利も活かしようがありません。
■新政府軍による「ダメ押し」
これに対して新政府軍は、正反対の散兵戦術を採用しています。そして鳥羽の城南宮や伏見の御香宮に陣を構えると、アームストロング砲などで十字砲火を浴びせていったのです。
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アームストロング砲
これでは、錦の御旗も何もありません。鳥羽伏見の戦いでは最初から新政府軍の方が有利に事を進めていたのです。
錦の御旗は、起死回生のための逆転の一手などという形で用いられたのではなく、あくまでもダメ押しで投入されたと考えるのが自然でしょう。
とはいえ、戦場に掲げられた錦の御旗が何の影響も及ぼさなかったわけではありません。【後編】では、この錦の御旗が掲げられた経緯と、それがもたらした本当の影響は何だったのかを解説します。
【後編】の記事はこちらから
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan