■実は手作りだった「御旗」

【前編】では、鳥羽伏見の戦いにおいて掲げられた「錦の御旗」が、実は戦場の大勢には大きく影響しなかったことを説明しました。

「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【前編】
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【後編】では、この錦の御旗がおよぼした本当の影響とは何だったのかを見ていきましょう。


鳥羽伏見の戦いで錦の御旗を与えられたのは、征討大将軍として任命されていた小松宮彰仁親王です。

「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【後編】


上野公園の小松宮彰仁親王像

ところで、最近は比較的知られるようになってきましたが、実はこの時の錦の御旗は正式なものではありませんでした。

本来なら、錦の御旗は天皇から下賜される(与えられる)ものです。しかし鳥羽伏見の戦いで戦地に投入されたのは、薩長のメンバーの手作りでした。

岩倉具視の側近だった国学者・玉松操が旗をデザインし、岩倉がそれをもとに大久保利通と品川弥次郎に旗を作らせたのです。

素材となる布地は大久保利通が調達し、長州藩内の養蚕施設の中で「錦の御旗」は密かに製造されました。この施設は人の出入りが厳重に管理されていたといいます。

こうして、一か月をかけて秘密裏に作られた数本の錦の御旗は、山口城と京の薩摩藩邸に運び込まれます。そして戦いの最中、薩摩郡の本営があった東寺に二本の御旗が掲げられたのでした。

全ては、天皇の威光を利用して戦況を少しでも有利に導くための策略だったのです。



■戦場への影響

この経緯を見ると、錦の御旗は「偽物」であり「偽造」だったと言えるのではないか? 新政府軍のやり方は天皇に対して失礼ではないか? と思われるかも知れません。

これについては、密造された錦の御旗については、朝廷から使用許可を得ていたと言われています。
しかし薩長が密造した旗を「本物」と言っていいのかどうかは、研究者の間でも意見が一致していません。

「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【後編】


かの大久保利通も「錦の御旗」の密造にひと役かった

さて、この「密造」された錦の御旗が掲げられた際、鳥羽伏見の戦場では大勢が決していました。よってこれによって新政府軍がドラマチックな大逆転を果たしたわけではありません。

しかしそれでも、官軍の証である御旗が掲げられたことは、戦場に大きな影響をもたらしました。

まず、新政府軍の薩長の兵士たちです。錦の御旗が掲げられたことで、彼らの士気は大いに高まり、涙を流しながら旧幕府軍に立ち向かっていく者もいました。

一方、旧幕府軍の兵士たちは大きな精神的ダメージを負うことになります。何せ、相手方に錦の御旗が掲げられたということは、自分たちは「逆賊」の烙印を押されたことを意味します。このため、幕府軍からは多くの離脱者が出ました。



■間接的に歴史に与えた影響

さらに、錦の御旗によってショックを受けて、鳥羽伏見の戦いどころか歴史全体にまで大きな影響をおよぼしたのが徳川慶喜です。

もともと慶喜は水戸藩の出身なので、皇室を敬う勤皇思想の持ち主でした。自分が総大将を務める旧幕府軍が逆賊として認定されたのですから、衝撃を受けないわけがありません。


幕末の歴史の謎のひとつに、慶喜はなぜ1月6日に自軍の将兵を置き去りにして江戸へ帰ってしまったのか…というのがありますが、意外と答えはシンプルで、彼は錦の御旗が掲げられたことに大きなショックを受けたのでしょう。

幕末の歴史において、政治家として怪物めいた手腕を発揮し、朝廷も諸侯も薩長も、そして諸外国すらも振り回した徳川慶喜。そんな彼も、さすがにこの時ばかりは平静を保てなかったのです。

「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【後編】


徳川慶喜の墓所

こうして旧幕府軍は総崩れとなりました。つまり「錦の御旗」は鳥羽伏見の戦いで大きな決め手になったわけではなく、間接的に総大将の徳川慶喜に大ダメージを与える結果になったのです。

ある意味、想像以上の効果をもたらしたと言えるかも知れません。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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