皇室の家紋は「菊の御紋」ですが、いつから使われているか知っていますか?
実は正式に「皇室の紋章」と決められたのは明治6年(1873年)のこと。
古来から使われていると思っていたのでこれはびっくり。では昔は何を使っていたのでしょうか?
皇室の紋章は元々、桐竹紋(とうきりもん)でした。俗に五三桐(ごさんのきり)と呼ばれるもので、五百円玉の裏に描かれている植物です。
9世紀の嵯峨天皇は桐・竹・鳳凰などを使用し、12世紀の後白河天皇は桐の文様が使われました。桐は想像上の聖獣である鳳凰が止まる木なので、縁起が良い植物として桐が使用されていたとのこと。

■なぜ菊になったのか?
ではなぜ菊になったのでしょうか。正式名は「十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)」といいます。
遡ると、最初に菊を好んで使ったのは鎌倉時代の後鳥羽上皇といわれています。13世紀前後ごろに衣服や調度品の文様に菊花紋を用い始めたことが始まりでした。
上皇は菊と日本刀が殊のほかお気に入りで、お抱えの刀工に打たせた刀に自ら鏨(たがね)で菊紋を彫り込んだという逸話が残るほど。
後鳥羽上皇は1221年に「承久の乱」を起こします。
その後、後鳥羽上皇の直系ではない者を天皇に据えたい鎌倉幕府と、朝廷とのせめぎあいで天皇は変遷を重ねますが、中立であった邦仁王が後嵯峨天皇として即位します。
しかし後嵯峨天皇は1246年に譲位して上皇となると、紋章を後鳥羽上皇が使用していた菊の紋章に変えました。
この経緯について、上皇に仕えた葉室定嗣(はむろさだつぐ)は日記「葉黄記」で
「上皇様が菊の紋章を使うのは先祖の後鳥羽上皇にならうものである。中国では前漢が滅んだ後に光武帝が後漢を復興したが、上皇様は自らが後鳥羽上皇の後継者である事を強く意識して、菊の紋章をお使いになった」
と書いています。
後嵯峨天皇が紋章を菊に変えたのは、反幕府の象徴的存在であり、朝廷は幕府の意のままに操られまい、という後鳥羽上皇の意思を継いだものであるということですね。もちろん色々と物議を醸しましたが結局は認められる事になりました。
時代は下がり江戸時代になると幕府の紋である「葵の御紋」は幕府の象徴であるから民間で使われることは固く禁じられていましたが、菊の御紋は制限がなかったので親しみのある紋として民間でも使われていました。
明治以降は天皇家の権威を高めるため、逆に菊の御紋の民間での使用は制限されることとなりました。
筆者は幕末の討幕運動で盛んに使われた「錦旗の御旗」(天皇の家紋を掲げた薩長軍に、幕府軍がひるむなど)のイメージがあったので、菊といえば尊い紋という認識しかありませんでした。桐の方が古いとは知りませんでしたので、面白いものですね。
参考:天皇家99の謎(歴史の謎研究会編)
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