医学が未発達であった20世紀以前、現代では治療方法が確立されている病気によって多くの人々が命を落とした。中でも感染症の脅威は別格で、地球規模でパンデミックが起こった例も存在する。






今回は【前編】に続き、主に性行為によって感染を引き起こす「梅毒(ばいどく)」が日本に及ぼした影響についてご紹介する。





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わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【前編】
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わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【後編】
梅毒の感染リスクが高かった遊郭の遊女(Wikipediaより)



国内上陸から感染拡大へ





1512年、国内で初めて梅毒に関する記載が認められて以降、京都や大阪を中心に感染は拡大した。その後、感染は江戸に広まりさらに多くの国民が罹患した。





梅毒感染者は江戸期に入ると増加し、原因には風俗文化が深く関係している。
1600~1700年代の日本には、太平の世を背景として遊郭が増加し、風俗業に従事する遊女を集めた地域も現れ、庶民に人気を博した。





性風俗の需要拡大に伴って梅毒感染者も増加し、有効な治療方法の確立していない当時では命を落とす者もあった。





江戸時代の蘭学医であった杉田玄白は、著書である形影夜話の中で年間に診察する患者のうち、7~8割は梅毒患者であったと記述している。











梅毒罹患が疑われる歴史上の人物





梅毒による死亡説が残っている著名な人物は多く存在する。





・松平秀康(まつだいらひでやす)
戦国末期から江戸初期の大名。徳川家康の次男。側室の子。
江戸初期に成立した書物には秀康の死因が梅毒と記載されている。





・加藤清正(かとうきよまさ)
戦国末期の大名。熊本藩初代藩主。好色であったとされ、梅毒に罹患していたとする説がある。





・間宮林蔵(まみやりんぞう)
江戸後期の密偵であり、探検家。間宮海峡を発見し樺太が島であることを確認した人物。死因に梅毒説がある。





幕末から明治にかけて





1860年には、長崎の地で梅毒検査が実施されている。これは当時長崎に寄港していたロシア人乗組員の相手をすることになっていた遊女に対して実施された検査で、日本初の梅毒検査であった。





江戸末期から明治初期にかけて江戸で遊女をしていた美幾という女性は、梅毒に罹患し死亡した。美幾は自身の遺体解剖に同意しており、日本で初めての献体者とされている。





その後も国内では全国で梅毒の検査が実施され、患者には強制入院が義務付けられた。






1940年代に入ると、抗生物質であるペニシリンの普及によって国内での発症は激減し、現在でも一定数の罹患者は存在するものの、重篤症例は少なくなっている。





〈参考〉
人類と感染症との闘い 梅毒



日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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