筆者も毎週欠かさず観ており、平安時代の文化を味わう日々です。
本作のヒロインであるまひろ(紫式部)には、弟の藤原惟規(のぶのり)以外にも同母姉(藤原為時長女)や異母兄弟がいました。
今回は紫式部の異母弟・定暹(じょうせん)の生涯をたどってみたいと思います。
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■幼くして出家、阿闍梨となる

若き日の定暹(イメージ)
定暹は生年不詳、紫式部の弟であれば天元3年(980年)ごろに生まれたものと考えられるでしょう。
母親は不明。恐らく身分が低かったため、幼い内に出家させたものと思われます。
修行を積んだ末に三井寺(園城寺)の阿闍梨(あじゃり)となりました。
阿闍梨とは高位の僧侶に与えられる称号または職位で、皇室に関係する儀式に携わった者に与えられます。
下級貴族の庶子でありながら、なぜそこまでの高位に昇れたのでしょうか。
もしかしたら、藤原彰子(一条天皇中宮)に出仕した(一説に最高権力者・藤原道長と関係を持った)姉が関係しているのかも知れませんね。
なお三井寺では後に父・藤原為時(ためとき)が出家していることから、三井寺と紫式部一族の浅からぬ因縁も感じられます。
長保4年(1002年)に亡き東三条院(一条天皇母・藤原詮子)の追善供養が行われた際は比叡山延暦寺に在席する僧侶として法華八講に出仕しました。
法華八講とは法華経八巻を四日間で講じる法会(仏事)で、高徳の僧侶として地位を確立していたことが分かります。
さらに寛弘8年(1011年)に一条天皇の大葬が行われた時は、百僧の一人に入ったと言いますから、よほど高い徳を積んでいたのでしょう。
主な活動はこのくらいになります。その後定暹がいつまで、どのように生きたのかについて、詳しいことは分かりません。
もしかしたら、父や姉たちも見送ったのかも知れませんね。
■終わりに

その後も、徳を積み続けたであろう定暹(イメージ)
以上、紫式部の異母弟・定暹の生涯をたどってきました。
高僧なのに謎の多い人物でしたが、他にもエピソードがあったら紹介したいです。
もし大河ドラマに出て来るとしたら、藤原詮子(吉田羊)や一条天皇(塩野瑛久)が亡くなるか、為時が出家するタイミングでしょうか。
その時は誰がキャスティングされるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 中井和子『源氏物語と仏教』東方出版、1998年9月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan