近代日本の工業化は、明治時代になってから、外国の技術を受け入れつつ「受け身」の体勢で進められていったと考えられることが多いですね。
すなわち、江戸時代の日本は農業中心の社会だったので、工業が育ち、工場を建設するような土壌がなかった…そのため、産業革命を経て大規模な工業化が進んだヨーロッパには大きな差をつけられていた、と。
この考えは、特に重工業に限って言えばほとんど正しいです。しかし実は、軽工業に関して言えば、江戸時代後半にはすでに日本国内でも発展の兆しを見せていました。
四日市の工業地帯
また、工業の発展だけではなく、それに伴う社会問題も起きていたのです。今回はそうした内容を見ていきましょう。
■「手作り」から「大量生産」へ
江戸時代の初め頃、商品価値の高い工業品を必要としているのは富裕層に限られていました。
こうした富裕層ウケする商品を作る場合については、職人が個人で作る家内制手工業か、商家が農家に道具を貸して商品を作らせる問屋制家内工業でまかなうことができました。
こうした商品は、いわば「手仕事」で作られていたわけです。
しかし、1800年代くらいになると次第に庶民の購買力が高まりを見せてきて、民間でも工芸品や特産品の需要が急激に高まってきました。
これを受けて、社会全体での生産体制にも変化がみられるようになります。個人の「手作業」による生産でまかないきれない需要に対応するため、商家は工場を設立するようになったのです。
工場と言っても大規模なものではなく、工員十数人ほどの小工場がほとんどでした。ともれ、こうした生産体制の変化によって生産性は大きく向上します。
いわゆる工場制手工業(マニュファクチュア)です。こうした工業は、日本国内では特に繊維工業において大きな発展をみました。
工場制手工業はすでに摂津国の酒造業でもみられましたが、繊維工業はそれ以上の広がりを見せます。江戸時代の日本では、生糸をつくりだす蚕の育成や、木綿の元となる綿花の栽培が盛んだったからです。

綿花
生糸は高級服として、木綿は庶民の普段着としての需要があったため、各藩で生産が奨励され日本全国に波及していきました。
■デメリットの解決策、そして明治維新へ
また、生産体制の変化に伴って技術も進歩しました。職人の手作りから、大型の織り機である「高機」や水車式の「水力八丁車」などを使う体制に移行していったのです。
これはまさに、資本主義による工業化の萌芽だったといえるでしょう。
当初、工場制手工業は綿織業が盛んな大坂や尾張都市部でみられましたが、幕末までには地方の農村部にまで小工場が建てられるようになりました。
その結果、日本では明治維新を待たずに工業の下地ができることになったのです。
ただ、こうした産業の発展にはデメリットもありました。
また領主層からすれば、工業化の進展は社会構造を変化させる危険がありました。富裕層以外が富を手にすれば、権力を持つことにつながるからです。
この問題に対する諸藩の対応は、大きくふたつに分かれました。農村復興政策によって旧来の社会へ回帰するケースと、工業化の流れに乗り、藩営工業の設立や特産品の専売制で富を増やすケースです。
このうち、後者を選んだのが薩長で、薩摩藩は砂糖の専売制や西洋式工場群の建造を推し進めました。また長州藩は紙やロウソクの量産・専売を通じて、財政を潤しました。

鹿児島紡績所技師館(異人館)。日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の技術指導にあたった、イギリス人技師の宿舎でもあった
この結果、薩長は強大な経済力と軍事力を持つようになり、倒幕運動の中核勢力になりえたのです。
こうして見ていくと、「工業後進国の日本で工業が興ったのは近代以降だった」どころか、反対に工業の発展あってこその近代化・明治維新だったことが分かるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan