また「天は人の上に人を造らず」……のフレーズでおなじみ『学問のすゝめ』でも有名でしょう。
思想家として大成した福沢諭吉は、幕末から明治にかけて活躍した武士でもありました。
渡欧中の福澤諭吉(画像:Wikipedia)
武士の習いとして幼い頃から一刀流(いっとうりゅう)を学び、のち立身流(たつみりゅう)居合術の免許皆伝を得たそうです。
まさに剣豪でもあった福沢諭吉は、どのような武勇伝を残したのでしょうか。そこで今回は、福沢諭吉の剣豪エピソードを紹介したいと思います。
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■神武不殺の境地

若き日の福澤諭吉(画像:Wikipedia)
……と言っても福沢諭吉は、生涯一度も人を斬ったことはなかったそうです。
当時は攘夷論者からしばしば襲撃を受けたものの、どんな時でも斬り合うことなく、必ず逃げ出したと言います。
「何だ。せっかく剣術を習得しても人を斬らないのでは意味がないじゃないか」
そんな嘲笑が聞こえてきそうな気もしますが、むやみに人を斬らないのは諭吉だけではありませんでした。
同時代に活躍した勝海舟(かつ かいしゅう)や山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)らもまた、生涯にわたり人を斬ることはなかったと言います。
敵を斬らずに逃げるのは、決して弱いからではなく、無用の流血を避ける知恵でもありました。
確かに「攻撃は最大の防御」とも言う通り、敵を斬ってしまえばそれ以上は攻撃を受けない訳ですから、できれば斬った方が後の面倒がありません。
しかしながら、今は敵味方に分かれていても、彼らもまた日本の未来を憂う同志です。いたずらに有為の人材を喪うのは国家にとって大きな損失でしょう。
斬りも斬られもせずに幾たびもの修羅場を逃げ延びられたのは、これも達人の技量あればこそかも知れませんね。
実際の動機を諭吉本人に確認した訳ではないものの、これはまさに「神武不殺(しんぶふさつ。武を極める者は人を殺さず)」の境地と言えるでしょう。
■死因は「抜きすぎ」!?激しすぎる居合の稽古
そんな諭吉は明治維新がなった晩年になっても居合の稽古を怠ることはありませんでした。
まさしく「治にあって乱を忘れず」を体現しており、本人がつけていた稽古日記によれば、一人千本以上も抜いていたそうです。
これを諭吉は健康のためと言って実践していたそうですが、一日千本の居合稽古はいくらなんでもハード過ぎはしないでしょうか。
後世の医学者・土屋雅春(つちや まさはる)は諭吉の死因を「居合稽古のやりすぎ」と指摘しています。
(ただし土屋の生きた年代は諭吉と異なっており、直接診断などしたわけではありません)
■エピローグ

最晩年の福澤諭吉(画像:Wikipedia)
寿命を縮めて?まで居合に打ち込み続けた諭吉。しかし明治時代も中期に差しかかって、人々の間に武芸ブームが起こると、パタッと居合をやめてしまいました。
正しくは「人前で居合に心得のある素振りを見せなくなった」ということです。
自分が永年命をかけて修錬した居合が、いっときの流行りものと同じにされるのは堪え難かったのであろうと察します。
いつ斬られるかなんて心配をしなくてよくなった(比較的)平和な世の中で、娯楽のように武芸が語られるのは、実にやるせない思いだったのかも知れません。
あるいは平和になったことを喜びながら、かつて闘いの刃に斃れた敵味方たちをそっと偲んだのでしょうか。
■終わりに
明治34年(1901年)2月3日、福沢諭吉は数え67歳で生涯を終えました。
土屋雅春が指摘した激しすぎる稽古がなければ、もっと長生きしていたのでしょうか。
それにしても、思想家や教育家として知られている諭吉が剣豪でもあったというのは意外でしたね。
逃げ続けて生涯無勝無敗。いたずらに幕末維新の志士を一人も斬らなかった事こそが、諭吉にとって最大の勝利だったのかも知れません。
※参考文献:
- 富田正文 校訂『新訂 福翁自伝』岩波文庫、1937年4月
- 土屋雅春『医者のみた福澤諭吉 先生、ミイラとなって昭和に出現』中公新書、1996年10月
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