戊辰戦争においては新撰組の崩壊後も新政府軍と戦い続け、明治の世を生き延びています。
斎藤一(Wikipediaより)
そんな新撰組隊士の中に、斎藤一諾斎(さいとう いちだくさい)という似た名前の人物がいました。
どうやら斎藤一とは別人物のようですが、果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
今回はこの斎藤一諾斎について調べてみたので、紹介したいと思います。
■僧侶として住職を歴任

厳しい修行を積み、住職を歴任する一諾斎(イメージ)
斎藤一諾斎は江戸時代末期の文化10年(1813年)、幕臣の子として江戸で生まれました。諱を秀全(ひでたけ、読みは諸説あり)と言います。
※以下「一諾斎」で統一。
長男ではなく、また養子先もなかったため、文化15年(1818年)に浅草今戸の潮江院で出家。まだ6歳という幼さでした。
仏道に帰依してからは修行を重ね、駒込吉祥寺・今戸潮江院・今戸慶養寺の住職を歴任します。
さらには国境をまたいで甲斐国山梨郡の東地院・同国都留郡の全福寺でも住職を務めました。住職にも転勤があるのですね。
■甲陽鎮撫隊への入隊を一諾?

新撰組局長・近藤勇。
ここまで斎藤一諾斎の経歴を見てきても、新撰組との絡みなんて一切見られません。普通に考えれば、このまま僧侶として天寿をまっとうしそうな感じですが……。
一諾斎が新撰組に入隊したのは慶応4年(1868年)3月。新撰組が京都を追われて江戸へ逃げ帰り、甲陽鎮撫隊を編成して甲府の制圧に向かっていた時でした。
隊士「ご住職様も、どうかお力添えください」
「承知した!」
隊士の勧誘を一諾(一発で快諾)したので、号を一諾斎と呼んだとかどうか。
あるいは日頃から、頼まれごとは何でも一諾していたのかも知れませんね。
しかし一諾斎はこの時点で56歳。これまで武芸を修めてきたとも聞きませんし、第一線で戦えるとも思えませんが……。
(前年に入隊していたとの説もあるようですが、大して変わりません)
老齢にさしかかった僧侶まで動員したいほど切羽詰まっていたのでしょうか。
あるいは地元で人望がある一諾斎を通じて、檀家などの入隊を期待したのかも知れません。
■各地を転戦し、土方より餞別を賜わる

甲州勝沼で新政府軍を迎え撃つ甲陽鎮撫隊。月岡芳年「甲州勝沼駅ニ於テ近藤勇驍勇之図」
ともあれ甲陽鎮撫隊に入隊した斎藤一諾斎は、さっそく甲州勝沼で新政府軍を迎え撃ちました。
いわゆる甲州勝沼の戦いですが、ここで甲陽鎮撫隊は惨敗を喫してしまいます。
初陣から黒星となってしまった一諾斎。しかしここで挫けるようなタマではありませんでした。
ちょっと上手く行かなかったくらいで投げ出すなら、最初から加勢などしなかったでしょう。
甲州を離脱し、局長の近藤勇が処刑されてからも副長の土方歳三らと共に新政府軍へ抵抗。
宇都宮・会津と北上し(追い詰められ)ながらも果敢に戦い続けたのでした。
しかし仙台まで来たところで、蝦夷へは渡航せず新政府軍に投降します。
これは闘志が挫けたのではなく、土方から家族を託されたのではないでしょうか。
土方は一諾斎に対して30両の餞別を送っており、生きて土方家族の元へたどり着く路銀だったものと思われます。
自発的に投降すればこんなものは奪われてしまうので、やはり新政府軍の目をかいくぐるつもりだったのでしょう。
しかし懸命な逃走もむなしく、一諾斎は新政府軍に捕らわれてしまったのでした。
■エピローグ・明治維新後
やがて戊辰戦争も終結し、それまで囚われていた斎藤一諾斎も釈放されます。
その後は武蔵国多摩郡中野村(東京都八王子市)に定住。土方・近藤の家族たちと交流を保ちました。
また明治6年(1873年)に生蘭学舎を開校、人々の教育活動に力を入れたそうです。
そして明治7年(1874年)12月18日、62歳でこの世を去りました。
土方・近藤家の人々は一諾斎の功績を讃えるために顕彰碑を建立したと言います。
墓所は保井寺(八王子市)にあり、今も世の行く末を見守っているようです。
■終わりに
今回は斎藤一諾斎の生涯をたどって来ました。
明らかに斜陽の新撰組(甲陽鎮撫隊)に与したのは、近藤たちの心意気に感じたためでしょう。
武芸に秀でていなくても、仲間たちと志同じく闘い抜いた姿は、今を生きる私たちに勇気と感動を与えてくれるようですね。
※参考文献:
- 『新選組銘々伝 一』新人物往来社、2003年7月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan