■特殊な稼業、山田浅右衛門はいつ誕生した?

武士の身分があった時代は「斬首(ざんしゅ)」という極刑がなされていました。この斬首を代々行っていた「山田家」という武家がいたのをご存知でしょうか。


幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人...の画像はこちら >>


出典:国際日本文化研究センターデータベース

江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた当主は代々「山田浅右衛門」と名乗っていました

こちらの記事にもありますが、今回は初代と幕末の八代目の話を盛り込みたいと思います。


実はかなりの高収入!試し斬りの高スキルを代々継承した江戸時代の死刑執行人「山田浅右衛門」とは?
幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた




正確には幕臣ではなく、明治に廃業するまで「浪人」という身分でした。初代は1600年代ごろの「山田浅右衛門貞武(さだすけ)」。

豊臣秀吉の配下だった谷衛好(たにもりよし)は、試し切りの腕が良く独自の試刀術を編み出しまし、のちに「谷流」という流派が出来上がります。

江戸初期の頃、谷流をくんだ山野永久という名手がおり、その息子の久英の代から正式に幕府の試し斬り役として働き始めたといいます。しかしその後は実子に技量を持つものが現れなかったため、弟子の一人に家業を継がせることになります。

それが浪人の山田浅右衛門貞武でした。

幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた


貞武は自身の子にも御様御用を継がせたいと幕府に願い、これが許可されたことから、代々御様御用と斬首刑の役を務める山田家が誕生しました。

しかし、生涯浪人だったのはなぜでしょう?

三代将軍・吉宗の代でその機会があったにも関わらず、申し出る機会を失ったからだとか、旗本に取り立てると技量が立つ者が相続できない場合に困るから、臨時雇いのような状態が幕府にとって都合がよかったからだ…とか諸説ありますが、はっきりとした理由はわかっていません。



■八代目には裏八代目がいた?

七代目は特に腕が立ち、遠山金四郎景元や土方歳三からも刀の鑑定を依頼されたといいます。また、執行人として幕末期の有名な吉田松陰や橋本左内の処分も行ったそう。

八代目には影武者ともいえる、弟の「山田吉亮(よしふさ)」という人物がおり、彼は兄弟の中では最も多く刑場で刀をふるったといいます。
家督を継いだのは八代目ですが、腕が良かったのは吉亮だったそうな。

彼が明治期に語ったところによると、やはり人の命を絶つということは慣れるものではなく、斬首のあった夜は気分が静まらず眠れなかったため、酒宴をおこなっていたようです。

そのため、周囲からは「山田家は怨霊に取りつかれため、毎晩騒いでいるのだ」などと良からぬ噂もたてられたことがあるそうです。

人の首を斬るときは骨の位置を見極め躊躇せず振り下ろし、相手を苦しめないようすみやかに絶命させることが大事であり、この仕事は、殺される人のためにはそれほどの腕がないとだめだということで、決してこの一家が残忍な嗜好性があったからということではないのです。

それどころか日々他の武士よりも剣術の研鑽も積まなければならないのは尚のこと、武士は必ず詠むといっていい辞世の句の心情を理解するため、俳句の道に通じるよう、教養も高めていたそうです。

明治時代に入ると「東京府囚獄掛斬役」という役職を与えられ執行人を務めていましたが、明治七年に絞首刑が極刑となり斬首ではなくなったことや死体の試し切りも禁じられるようになったため、山田家は廃業となりました。

しかしその後も裏八代目の吉亮にはたびたび依頼があり、明治十五年の七月二十四日が最後の仕事だったそうです。

参考:『幕末維新あの人のその後』(PHP文庫)

トップ画像:国際日本文化研究センターデータベースより

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ