「天皇一族は、民の上に立つ資格を持たない下賎だ。
私は自ら天狗の妖怪となって、天皇一族を今の地位から引き摺り下ろす。

そして民の国となるまで、天皇家を呪い続ける。」





自らの舌を噛み切り、その血で記した壮絶な呪いの言葉は、近代になってなお天皇家を脅かし続けました。





血文字の主は、日本三大怨霊の中でも最恐と言われる祟り神、崇徳天皇(すとくてんのう)です。しかし一体何が、自分自身も皇族の一人である崇徳天皇を、ここまで駆り立てたというのでしょうか。





一家断絶したまま息絶えた崇徳天皇





崇徳天皇は自らの弟との 戦に敗れ、島流しされた先である讃岐国で、犯罪者のまま生涯を終えています。和歌や写本といった文化芸術を愛した人生、享年46歳でした。





そりゃ祟りたくもなる…平安時代、毒親育ちの崇徳天皇が”最恐の...の画像はこちら >>
画像引用:ウィキペディア



父である鳥羽上皇は、崇徳天皇を忌み嫌った毒親であると言われています。またそんな毒親の所業を真似たのか、弟の後白河天皇も崇徳天皇をひどく嫌っていました。





それでも家族の絆を信じていたのでしょうか。崇徳天皇は、二人に歩み寄ろうとする姿勢をあきらめることはありませんでした。





本当の父は祖父だった!?





鳥羽上皇が崇徳天皇を冷遇した理由は、崇徳天皇の出生に端を発すると言われています。崇徳天皇は鳥羽上皇の息子ではなく、鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の父である白河法皇の間にできた子だというのです。





それを裏付けるように、鳥羽上皇は崇徳天皇を叔父子と呼んでいます。
叔父子とはつまり、妻と父(白河法皇)の子であるという意味です。





また白河法皇は崇徳天皇非常に可愛がっていました。崇徳天皇が5歳の時には、当時の鳥羽天皇上皇に退け、崇徳天皇に譲位させています。





こうして崇徳天皇と鳥羽上皇の親子関係は、破綻に向かって加速していきました。











止まるところを知らない陰湿なイジメ





白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇によるいじめはより一層表面化します。





そりゃ祟りたくもなる…平安時代、毒親育ちの崇徳天皇が”最恐の祟り神”になってしまった理由
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例えば鳥羽上皇は、20歳の崇徳天皇に対し、若干3歳の異母弟である近衛天皇に譲位するよう迫りました。しかし体の弱い近衛天皇は、わずか17歳で崩御。





すると鳥羽上皇は、後任として崇徳天皇を呼び戻すのではなく、崇徳天皇の弟である後白河後天皇を即位させています。





兄弟の直接対決と島流し





崇徳天皇と弟である後白河天皇の関係性も破綻しています。鳥羽上皇崩御の際、崇徳天皇は葬儀はおろか、初七日の法要に参列することも許されませんでした。





後に保元の乱で、崇徳天皇と後白河天皇は直接対決しています。この保元の乱で崇徳天皇は惨敗し、朝廷に逆らった罰として島流しの刑を受けました。






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可愛さ余って憎さ百倍!?





讃岐国に島流しになってからというもの、崇徳天皇は写本に没頭しています。





ある日崇徳天皇は、弟のためにと5種類のお経を書き写した本を作成し、京都に届けました。ところが後白河天皇は、「呪いがかかった薄気味悪い写本だ。」と蔑み、突き返してしまいます。





これを知った崇徳天皇は怒り狂います。自ら舌を噛み切ると、その血で冒頭の文章を綴りました。





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自らの耳を切り落とした画家のゴッホにも通じるメンヘラぶり・・・。





こうして崇徳天皇は、生きながらにして妖怪天狗となったともされています。





冷遇されても家族を想い続けていたはずの崇徳天皇ですが、拒絶された途端に豹変する二面性もあったようです。





おわりに





昼ドラ顔負けのドロドロな家庭環境に生まれ、毒親の元に育った崇徳天皇。和歌を読んだり写本に没頭するなど文化に興じる穏やかさと、自傷行為と共に罵詈雑言を尽くして人を呪う猟奇的激しさ。





極端な二面性を内包した崇徳天皇は、その死後、祟り神となりました。しかし今では、悪縁を断ち切り良縁を結ぶご利益をもたらす神として祀られています。






崇徳天皇の魂を鎮めるために創建された白峯神社をはじめ、京都の有名な縁切り神社である安井金比羅宮が有名です。





切っても切れない悪縁を断ち切りたい!崇徳天皇の御霊を祀る「安井金比羅宮」
そりゃ祟りたくもなる…平安時代、毒親育ちの崇徳天皇が”最恐の祟り神”になってしまった理由






そりゃ祟りたくもなる…平安時代、毒親育ちの崇徳天皇が”最恐の祟り神”になってしまった理由
画像引用:安井金比羅宮



家族から縁を切りたいと望まれても必死に家族にしがみつき、忌み嫌われながらも受け入れられたいと願い続けた崇徳天皇が、縁切りと縁結びに携わる皮肉に、心が痛みます。





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