今回は道長の末娘・藤原嬉子(きし/よしこ)を紹介。果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。
■19歳の若さで世を去る
藤原嬉子は寛弘4年(1007年)1月5日、道長と正室・源倫子の間に誕生しました。
同母姉兄には藤原彰子(しょうし/あきこ)・藤原妍子(けんし/きよこ)・藤原威子(いし/たけこ)・藤原頼通(よりみち)・藤原教通(のりみち)がいます。
寛仁2年(1018年)に12歳で尚侍(ないしのかみ)に任じられました。
尚侍とは天皇陛下の身辺をお世話する内侍所(ないしどころ)の長官(かみ)です。
とても12歳の少女に務まる職務ではありませんが、現場には実務を担当する女官がいるので問題ありません。
翌寛仁3年(1019年)に裳着(もぎ)をすませて成人した嬉子は、従三位に叙せられます。
嬉子が入内した後朱雀天皇(画像:Wikipedia)
やがて15歳となった嬉子は寛仁5年(1021年)に長兄・頼通の養女となり、皇太弟の敦良親王(あつながしんのう)へ入内しました。
道長が自分の娘としてではなく、わざわざ頼通の養女としたのはなぜでしょうか。
世代を繰り下げることによって、頼通の代になっても「自分の娘を入内させた」外戚としての地位を確保させておきたかったものと考えられます。
敦良親王は後に皇位を継承し、後朱雀天皇(ごすざくてんのう。
そして入内から4年後の万寿2年(1025年)8月3日、嬉子は待望の皇子を出産します。
皇子は親仁親王(ちかひとしんのう)と名づけられ、やがて皇位を継承して後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう。第70代)と呼ばれるのでした。
しかし出産からわずか2日後に病のため薨去。死因は赤斑瘡(あかもがさ。現代の麻疹)ということです。
待望の皇子が生まれ、人生これからというところだったのに、19歳という若さで世を去ってしまったのでした。
■藤原嬉子の魂を呼び戻す?

藤原嬉子(イメージ)
嬉子が亡くなった報せを聞いた道長は、大変動揺したと言います。
「直ちに陰陽師を呼べ!魂呼(たまよばい)をさせるのじゃ!」
魂呼とはその名の通り、魂を呼ぶこと。冥界へ旅立とうとしている魂を呼び戻して、生命をつなぎ止めるための儀式です。
「お言葉ながら、魂呼は陰陽師の職務違反では……」
「うるさい、今すぐやれ!」
「……ははあ」
道長の厳命とあらば仕方ありません。
中国の古典『礼経』によると、屋敷の屋根に上り、その東側で衣を振りながら三度名前を呼ぶのだそうです(檀弓編三)。
これで死者が甦るといいのですが……結局のところ、嬉子が息を吹き返すことはありませんでした。
それどころか、声を聞かれたか姿を見られたかで魂呼の儀式を行ったことがバレてしまいます。中原恒盛は陰陽師の職務違反として注意を受けたのでした。
道長の命令に従っただけなのに、気の毒でなりませんね。後から道長のフォローがあったことを信じるばかりです。
■藤原嬉子・略年表

後冷泉天皇(イメージ)
- 寛弘4年(1007年)1月5日、誕生(1歳)
- 寛仁2年(1018年)尚侍となる(12歳)
- 寛仁3年(1019年)成人し、従三位となる(13歳)
- 寛仁5年(1021年)頼通の養女として敦良親王(後朱雀天皇)に入内(15歳)
- 万寿2年(1025年)
8月3日、親仁親王(後冷泉天皇)を出産(19歳)
8月5日、赤斑瘡のため薨去、道長が魂呼の儀式を行う
8月29日 正一位を追贈される - 寛徳2年(1045年) 後冷泉天皇の即位に際して皇太后を追贈される(薨去後20年)
今回は道長の末娘である藤原嬉子の生涯をたどってきました。
いずれは国母として栄華を極める未来を前にしながら、若くして世を去った無念はいかばかりでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」に嬉子は登場するのか、登場するなら誰がキャスティングされるのか、興味深いところです。
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