日本史でいうところの「古代」は、旧石器時代から平安時代までを指します。
今でも教科書では、旧石器時代とそれに続く縄文時代との境界線は「日本が島国になったこと」「土器が使われ始めたこと」だとして説明されていますね。
ではその次の、縄文時代と弥生時代の境界線はどこにあるのでしょうか。
今までの教科書的な説明では、稲作の伝来によって人々の生活が変化したことをもって弥生時代とする、とされてきました。
もちろん現在でもこの考え方に変化はないのですが、それでは稲作が伝来したのがいつの出来事なのか、という点については、学説も大きく変わってきています。
むしろこの「稲作が伝来した時期」は地域差が大きく非常に流動的で、よって学説も常に変わり続けていると言ってもいいでしょう。
■始まりは九州地方から
もともと、弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀まで、と説明されることが多いです。
これらの説は、土器の研究や、遺跡から出土した青銅器の製造年代などがヒントになっています。
また、コメや貝などの物質に含まれる放射性同位体などから測定する炭素年代法などもふまえ、総合的に解釈して導かれたものでした。
ところが2002年に、国立歴史民俗博物館が衝撃的な発表をしました。弥生時代の始まりを紀元前10世紀である、としたのです。
同館は、佐賀県の菜畑遺跡と、福岡県の板付遺跡から出土した土器に着目しました。これに付着した炭化物や木の枝を、最新のAMSI炭素年代法によって測定したのです。

板付遺跡
その結果、それらは紀元前900~800年のものだと分かりました。
このことから、紀元前10世紀後半には九州北部で水田稲作が本格的に始まっており、それが約800年かけて東北地方にまで広がっていったと結論づけたのです。
■じわじわ浸透した「弥生文化」
最近の一部の教科書では、もともとの紀元前3世紀説や上記の紀元前10世紀説をあわせて紹介しつつ、「800年かけて日本列島に広がっていった」つまり「九州から漸進的に弥生時代が広がっていった」という部分を強調するようになっています。
稲作は瀬戸内周辺に広がるまで200年、近畿地方までで300年~400年、中部地方には500年、関東地方には600~700年、そして東北地方には800年かかったというのです。
現在では「稲作伝来イコール弥生時代のスタートである」とは説明せず、九州北部から東へと順に弥生時代に変わっていった、と説明するようになっています。

三内丸山遺跡の発掘現場
今までの歴史教育では、なんとなく稲作が伝来したことで明治維新のように人々の生活環境や社会が一挙にガラリと変わったようなイメージでした。
しかしそれは非常に雑な理解で、稲作はじわじわと日本列島に浸透し、日本列島の「弥生時代」が完成するまでには800年もの時を要したわけです。
言われてみればそれも当然ですね。交通・通信の手段が限られていた時代のことです。稲作のような農耕技術がある日を境に一挙に日本中に広まって、その日から「弥生時代」が始まるなんてありえません。
そもそも青森県の三内丸山遺跡の研究などから、縄文時代にはすでに農耕が始まっていたとも言われており、稲作を受け入れる下地も縄文時代に始まっていたと言えるでしょう。
このように、縄文時代と弥生時代の境界線をしっかり引くのは、現在では難しくなってきているのです。
参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan