■九州説vs畿内説

『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国については長らく議論が交わされ続けており、学界はもちろんアマチュア考古学者や古代史ファンに至るまで、多くの人々の好奇心をとらえ続けています。

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『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(Wikipediaより)

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邪馬台国に関する大きな論点はふたつあります。
ひとつは邪馬台国の場所について、もうひとつは邪馬台国イコール後年のヤマト政権なのか、です。

前者については、奈良県や北九州、南九州などに「やまと」という古くから伝承されている地名が残っていることなどを根拠に、「邪馬台」から連なる地名なのではないかという解釈が有力です。

いわゆる畿内説との関連で言えば、奈良県桜井市にある纒向遺跡の発掘調査(2009年)で、かなり整然と配置されている大型建造物の跡も発見されており、「これこそが邪馬台国ではないか」と注目を浴びるようになりました。

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纒向遺跡・辻地区(Wikipediaより)

さらには同県同市の箸墓古墳の年代がほぼ3世紀に該当することもわかっています。

これだけでは、ただちに邪馬台国が畿内にあったとは断言しにくいですが、3世紀前半には、近畿から北九州に及ぶ広域の連合政権が成立したという考え方が有力です。

これが、後に成立するヤマト政権に連続している、ということですね。

一方、九州説で考えた場合、邪馬台国とその傘下の小国連合は九州北部の小規模なものになるでしょう。

この場合はヤマト政権との連続性はなく、後にヤマト政権が邪馬台国を吸収・合併したか、あるいは邪馬台国が東に移動してヤマト政権を形成したのではないかと考えられます。

■意味のない議論

ただ、ここまでいわゆる畿内説・九州説について解説しておいてなんですが、現在の考古学では「邪馬台国がどこにあったか」という議論はもうあまり意味がなくなってきています。

邪馬台国は中国の三国時代の三国の一つ魏と通交があった国として『魏志倭人伝』に登場しますが、ただそれだけのことです。

反証となるものも含めたさまざまな史料を突き合わせて、厳密に検証・実証していくのが現代の歴史学の方法論です。

そんな中では、『魏志倭人伝』ひとつに登場しているだけの邪馬台国については、問題にすることすらできないというのが正直なところでしょう。


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卑弥呼の墓ではないかともいわれる箸墓古墳(Wikipediaより)

また近年は、邪馬台国は他の小国を傘下に治めてその上に君臨していたとか、当時の倭国の最有力国あるいは唯一の政権であった、という従来の説にも疑問がもたれるようになりました(詳しくは倉本一宏の『日本史の論点』『邪馬台国はどこにあったのか』などが分かりやすいです)。

そして『魏志倭人伝』をベースにした理解では、どうしても当時の倭と魏との関係が問題になりますが、実際には当時の倭は江南にあった呉の方と密接な関係にあったのではないかと言われています。

【後編】では、この呉と倭あるいは邪馬台国の関係についての説をご紹介しましょう。

【後編】の記事はこちらから↓

邪馬台国の場所「九州説vs畿内説」はもう古い?邪馬台国と倭の情勢を国際関係から読み解く【後編】
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参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社

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