大化の改新と言えば歴史の年代を暗記するための語呂合わせを思い出しますね。
大化の改新は645(大化元)年とされてきたので、「大化の改新、蘇我入鹿をムシゴロシ」とか「蒸し米で祝う大化の改新」などと覚えた人もいるのではないでしょうか。
しかし近年では、この「大化の改新=645年」という見方も変わってきています。従来の語呂合わせの暗記方法は、もう通用しないのです。
これまでは、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事件が「大化の改新」の始まりだと説明されてきました。
蘇我入鹿の首塚
しかし現在では、中学校の教科書でもこの事件を「乙巳の変」と教えるようになり、「事件」と「改革の開始」の両者をしっかり区別するようになっているのです。

乙巳の変(『多武峰縁起絵巻』より。 出典:Wikipedia)
もう少し詳しく説明しましょう。

■「改新」の成果について
乙巳の変が勃発した時の天皇は皇極天皇(中大兄皇子の母)です。退位して軽皇子(皇極天皇の弟)に譲位し、軽皇子が孝徳天皇となりました。 そして都が難波に移されます。

大阪・前期難波宮跡 西八角殿跡
そして646年にいわゆる「改新の詔」が出され、政治の方針が示されました。ここからを大化の改新と現在では説明するようになっているのです。
さてその「大化の改新」の具体的な内容ですが、今までは「日本」が国号となったこと、「天皇」という称号が正式なものになったこと、「大化」が日本で初めての元号となったことなどが挙げられてきました。
ところが、これらも最近ではちょっと怪しいとされています。
まず大化の改新という表現は、7世紀の政変から始まる改革を振り返って呼称した、『日本書紀』上の名称です。その振り返りが行われたのは8世紀になってからでした。
つまり、改革が行われた7世紀当時、一連の改革が大化の改新と呼ばれていたかどうかは定かではありません。
また、日本がいつから「日本」となったのかは諸説あります。
日本が国号となった時期については概ね二つの考え方があり、一つは天武天皇の時代(673~686年)、もう一つは大宝律令制定(701(大宝元)年)以後というものです。
いずれにせよ、ムシゴロシよりだいぶ後のことですね。
■「倭」から「日本」へ
まずそもそも、古墳時代からの呼称だった「大王」が「天皇」という名称に変わったのは天武天皇の時代からだと、現在では明らかになっています。
よって「日本」という国の名前が公式に定められたのはこのときだとするのが、前者の説です。
また、後者の大宝律令制定以後という考え方は、702年に遣唐使が持参した文書に「日本」という言葉が使われていたからです。

奈良・平城宮跡 復元された遣唐使船
対等な律令国家として中国に正式な国交を求めるべく、「日本」を名乗ることでかつての「倭」という蔑称を改めてもらおうとしたわけです。
より具体的に670年に「日本」が使用されているのが、中国の歴史書『旧唐書』東夷伝と、そして朝鮮の『新羅本紀』です。
『後漢書』『三国志』『宋書』『隋書』はずっと「倭」と表記していますが、『旧唐書』『新唐書』『宋史』『元史』『明史』はすべて「日本」と記載。このことからも、明らかに「日本」と名乗っていたのは唐の時代からだと分かります。
そして年号についてですが、現行の中学教科書では、当時の木簡からは干支年しか確認できず、現在に続く年号(元号)は大宝から始まったと考えられると表記されています。
このようなことから「最初の元号は大化」という表現も教科書からは消えつつありますし、実際、現場ではそのようにはもう教えていません。
もはや「大化の改新は645年」という考え方は通用しなくなっているのです。
参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan